Eno.1068 魔王の日記

手を握られた日

今からずっとずっと昔のこと。
魔族と人間たちの間で争いは起こっておらず、種族間の平穏は安寧のモノであった。

………と思ったのは最初だけであった、海から陸地へと足を踏み込んだ彼女を待っていたのは貧困と格差の社会。
魔族領を、アザーラックは行く当てもなく放浪していた。
この時の彼女は魔王でもなんでもない、王冠もないただの角持ちの魔族の旅人。
ただその見目の美しさと強さから、どこへ行っても噂されていたそうな。


"白雪の龍人"


なんて大それた通り名。気を抜いてアザラシの姿でゆっくりもできなかった。
魔族たちは力あるものを欲し、手を伸ばす。ただの旅人であった彼女は、知ったことではないように数多の手を叩き落としてきた。


ただ一つを除いて。


黒髪の男の子。勿論魔族だ。
細っこい手なんて簡単に振り払えたのに、何故だかその子の手は振り払えず立ち止まってしまった。
『どうした』
なんて問えば、『とても困っている』なんて言う。同じく、彼女も困ってしまった。

話を聞くに、当時魔族領を統治していた王がとんでもない悪王だったらしい。
至福を肥やし、民衆から絞りつくす。力と権力だけはある輩がよくやることだ。

………………外界的脅威が消え去った後は、内部の力の強いものが圧制者となる。
世の常なのだと、白い雪が積もっていく少年の黒髪を眺めた。


と。普段の彼女ならば無視を決め込むところなのだが。
その時の彼女は少し困っていた。現地の言葉がわからなかったのだ。
きっと方言がきつかったのだろう、酷く訛っていて何をするにもどこに行くにも首をひねっていた。

だから、男の子にこう頼んだ。


『そいつを殴ってやるから一日ここを案内してくれ』


かなりの安請け合い、でもおかげで快適に街を回ることができた。
なのだが、男の子は次の日も次の日もはたまた街を出る日もついて来た。
アザーラックは、付いてくるつもりなのか………?と少年に問うた。すると元気よく肯定の答えが返ってきて少し頭痛がしたらしい。


それからかの圧制者を殴りに行く旅が始まった。
と言っても、小柄な女と少年の二人旅だ。どこへ行っても笑いもので相手にされない………はずだったのだけど。
少年の言葉巧みな勧誘か、はたまた"白雪の龍人"の噂のおかげか一人また一人と仲間が集まっていった。
アザーラックは最初こそ困惑していたが、悪くはないと痒い角をかいた。

誰かが言った。『まるで勇者御一行だ』なんて。
おかしな話だ、内訳は全員魔族や魔物でやることは反乱に等しいのに。
魔王一人倒せばすべて丸く収まる話ではない………とうすうす感じてはいた。けれど約束だ、かの圧制者を殴らないといけないのだから。



そしてあれやあれやと魔王城。ただの旅人が一体どうしてか、気づけば王と対峙してそのむかつく顔面に一発浴びせていた。
それが面白いくらい吹っ飛ぶものだから、男の子は腹を抱えて笑っていたそうな。
周りの兵士たちも『お尋ね者』の力に圧倒されてすぐに矛を収めて膝をつく。

あれ、おかしいな。平穏な日々を求めていたはずでは………

なんて呟きも勝利のラッパにかき消された。
『お尋ね者』は『勇者』と呼ばれ、次なる『魔王』の座と王冠を賜った。

そして平和な統治が続きましたとさ………



という昔話がある。
今も残っているのはその『勇者』と『御付の少年』のみだ。
………少年はすっかり青年になってしまったけれど。