Eno.691 明日の分霊の日記

無心

人間ってのは途方もない量の記憶の積み重ねで成立してる。
嘘も本当も、正義も悪も。 ありとあらゆる清濁を巻き込んで、その心と人格は形成される。

その中身を、根こそぎ奪いさる。一人だけじゃねぇ、他人に記憶もお構いなくだ。
その結果なんざ考えなくても分かるだろ。

​───────破綻するんだよ、現実が。




*******

限られた面積を奪い合うように、人は高く高く部屋を積み上げる。
この国にとって最も高価なのは金でも命でもなく空間である。故に、人々はあらゆる方法で空白を埋めていった。
建築に次ぐ建築、争奪、対価。
魔術師達はこれに参加せず、魔術で解決させた。
体内の空洞に異空間に繋がる式を埋め込み、自在に出し入れする物質収納式アイテムボックス


その内側から、えいやっ!と軽い声がする。



​───────うーん。今日の晩御飯は何にしよう。昨日はお肉だったから、今日は魚にしようかな。
確かシルクフィッシュが旬だったはず……あ、煮付けにしようかな。それと白菜の胡麻和え……いやもう少しさっぱりさせよう。つまりオートドックスな酢の物。

「ゆるし、ゆるしてくだ、あ、はなして、やめてやめ」

そういえばこの間貰った黒のコート、まだ着れてないんだよなぁ………
新しいブラウス……ユアリリの新作可愛かったし、そっちで揃えようかな。
あ、メルシュトにも行きたい!この前ネットで見たバラの形をした踵の靴、めっちゃ可愛かったんだよね……となるとアクセサリーも薔薇系で揃えちゃいたいよね〜💕

「はなし、はなじて、きえる、ああ、いや、いや、いいや、きえて」

もう時期常時夜祭だし色々と整理しちゃいたいね。
大体の服はまだまだ現役だけど、術式は綻んでるの多いし。特に汚染転移式コップ一杯の水で服を綺麗にする式はちゃんと確認して編みなおさないと。

「やめておねがい、ひとみが、わたしの、きお、あえ」

……む、今日は晩御飯作るのやめて、ディナーに誘っちゃうのもあり……!!??
帰りに買って帰っても全然間に合うし、一式揃えておしゃれして誘っちゃう?!
あ〜でも急に誘われたら迷惑だよね
……せんせいの服も揃えて買っちゃおうかな。
そしたらオソロコーデ……やば、テンション上がっちゃう❣️

「あえ、れ、あれれ、れれれ、なん、わあし」

となると買い出しは無し。
せんせいメッセージアプリ嫌いだからメールしか連絡手段ないの、ちょっと面倒だよね……電話のが良いかもだけど、今月カッツカツだし。
やっぱ月初めに新しいソフトウェア買ったのは失敗だったよな〜……
いくら研究費で落ちるとは言ってもねぇ……節約に越したことはないし……

「きえ、わす、わすれちゃう、やめてやめてはなして、にげて、」




あなたハザマ

「ダメだよ奥さん。」

えいやっ。人差し指と親指を重ねて弾く。
回った毒は脳を汚染し、土足で踏み入られた記憶達はもう何にも成れないだろう。
きろりと脳を見上げた瞳孔と、口から漏れた無我の息。どさりと質量のある憎悪が、音を立てて崩れ落ちた。
外傷はない。ただの人形だ。
それを正面から見下して、青年は息を吐く。その時になって、初めて自分が息を止めていたと気づいた。
背中にしみた汗が酷く不快だった。
青年は深くしゃがみこんで、バックからライターとストライクいつもの煙草を取り出して。慣れた手つきで火をつけた。鮮やかなヒールに刻まれた点火式、そろそろメンテナンスしなくっちゃね。

煙が上り、肺は沈んでいく。

女。せんせいの奥さん。
ボクに与えられたものと、同じものを与えられていた何者。ボクだけのものじゃなかった愛。

「せんせい。」
どうして隠してたんですか。自己責任ってなんですか。

「せんせい」
なんで言わなかったんですか。こんなに長く一緒にいたのに。

「せんせい」
息子がいるなんて、奥さんがいるなんて聞いてない。そいつらが、ボクらの間に踏み入るなんて考えたくもない

「せんせい……」
ああ、憎らしい。頭の上から泥を被ったような気だるさ。乾いたような心の覚束無さ。

空いた手で白い項をなぞる。耳飾りがシャラリシャラリと軽やかな音を奏でた。まるで夏の夜風のように気持ちの悪い音。ああこんなにも。

「……あなたは、せんせいの何だった?」
耳飾り?髪飾り?コート?ブラウス?ズボン、下着。それともくつ

忌々しい。お前を構成する、その全て。
お前に連なる全て、存在ごと。消えて消えて。消して消して。
失せろ、失せてよ。ボクと先生の間に入ってくるな。​
何であろうと、せんせいの纏う記憶には似合わない。
落ちていく煙が、どっしり肺を押し潰す。







「はあ。……」
「愛って、大変だね……」