鬼 - 弐

「あんた、また逃げたんか。ガキ相手に!」
鬼は、囲炉裏の炎にぬらりと照らされる、同族の横顔をちらと見た。
二十年来の付き合いになるが、こいつは今日も変わらない。興味が失せて、視線を手元に戻した。

「いい加減喧嘩の一つでもしたらどや。ウチのガキどもも最近明け暮れとるわ。
喧嘩は鬼の花道!人間どもの呼び上げもサマになってきたしよう〜?」
力こぶをバチバチ叩いて、今日も何人も引っ掛けたのだと高らかに報告する。
窮地に陥ってから乱打を繰り出す、不死鳥の如き土俵際の粘りがこいつの自慢だ。
人間を攫って喧嘩の審判にする風習が始まって久しい。
土着のルールに困惑し、ミスをする人間が後を絶たず、最近になってようやく致し方なしと人間部屋(人間が共同生活をしながら喧嘩ルールを学ぶ取組)が創設された。
その施策が実を結んできたらしい。

「やられっぱなしで悔しくないんか」
小馬鹿にしたような声色でありながら、その眼差しは真剣そのものだった。
大真面目に言っているのだ。
それが額面通りの意味でない事はこれまでの付き合いで分かり切っていたが──
どちらにせよ、愚問に変わりない。

「悔しいさ」

「ならやり返せばええ!」

「同じに見えるのか」

「あ?」
鍋を掻き混ぜる手を止め、しかとその眼をとらえる。
杓子を握る厚皮はざらつき、何度も修復された末に歪に硬く張っていた。

「己の悔しさってのが、お前らのと同じに見えるのかって聞いてんだ」
男は怪訝な顔で、乗り出していた身を引いた。
交差していた視線が逃げていく。
それは、今朝方己に突っ掛かってきた餓鬼に報復を一発入れられなかった事への悔しさではない。
もっとずっと前から煮え滾り、何十年も執念深く己を支える原動力だ。
多くの鬼が抱えるちっぽけな見栄とは違う。己たちは掌一つ取っても、まるで違うかたちをしている。

「……同じやろ。
あんた、いつまでスカしとる気や。
カッコつけとるつもりか?」
分かっているだろうに。
部屋の隅に散乱する刀の鉄臭さも。
お前らとは疾うの昔に道が分かたれた事も。

「つまらん男やな」
男は灰に唾を吐き捨て、やおらに腰を上げた。

「鍋、ごっつぁんです」(ペコ)
三十の頃。
それまで負け知らずだった己は、初めて敗北を味わった。
たった一人の人間を相手に、完全に遅れを取った。
たった一人の人間を相手に!
強くならねばならないと思った。
目の前の人間を打倒するといった刹那的な欲ではなく、この人間を倒す者より、それを倒す者より、圧倒的に強くならねばならぬと魂が訴えた。
──この鬼の勝利への執着は一線を画していた。
いかに鬼の一族と言えど、寝食に繁殖、生物としての本能すら捨て置き戦いに身を投じる者は他にいない。
とりわけ特異なのは、"今”の戦いに拘らず、"次”のために撤退行動を選べる理性が備わっていた事である。
鬼の限界を超えて強くならなければならない。
あの里の中で一番になるくらいでは、その壁は永劫超えられないのだと、肌で感じていた。
程なくして、鬼は外に目を向ける。
有翼の種の乱戦に混じった。
多種族入り乱れた混沌に突っ込んだ。
多くの戦場を駆け回った。
武器はその場で調達して、気に入ったものは持って帰り、次の戦で再利用する。
結局、"奴”が使っていた武器がしっくり来て、そればかり振るっていたが。
三途の川を何度も渡りかけて、その度に細い糸をよじ登って生き延びた。
何十年もそんな生活を続けた。
里では息を潜め、体力を温存して、外での戦に明け暮れる毎日──
なんと惨めたらしい姿かと、四六時中怒りが蜷局を巻いていた。
けれど同時に、身命を賭して戦うたび、肉体が一線を越える感覚が幾度もあった。
ただ一つ、それだけを頼りに
付き纏う怒りを抑え込んで、明くる日も、明くる日も、戦い続け──
──鬼が百歳になった頃、角は墨のように黒く染まっていたという。
本来、現頭領を打ち倒した者が次の頭領の座を継ぐが、この年、頭領は自らその座を降りた。
鬼の本能そのものが、一人の鬼によって塗り替えられた瞬間である。
鬼の凶悪性が増したのは、この時代からと記されている。