Eno.691 明日の分霊の日記

贈り物

「恩があるんだ。なぁ。」

幽世の森の奥、巨大な岩の頂。
紫苑の青年が、小さな鬼火を片手に掲げている。
背を丸め。手のひらに収まる炎を見失わないように。瞳の奥へ焼き付けるように。
青年の背には杖。作られてから三百年たってなお、その輝きは翳らない。頂きに飾られたネオン微睡む宝玉は汚れを知らぬまま、煌々と微笑んでいる。
父親が設計し、義兄がデザインした、青年の宝物。

義理の兄。………己に転生する前、少年だった自分が慕った、エレガントな悪夢。

義兄の名を、オルド・オードという。

しかし兄はもうどこにもいない。もう死に別れてから五百年たつ。……自分と同じように転生し、同じ名を持って、新たな生を我儘に謳歌する彼は自分の知る義兄の面影を持たない。
別人だった。しかし、嘘偽りなく同じ魂だった。
個人単位の厄災、抹消のロード。

奴の名を“吸憶鬼オルドオード“という。

着飾った終幕、記憶の簒奪者。
界洋において概念を司る頂上存在、ロードの名を冠するもの。
界洋で最も疎ましい、恋多きオム・ファタール。
人生を奪い、理想を押付け、食いつぶし、消費する。
挙句の果てにその責任を世界に取らせる。気まぐれのままに破滅へ誘う赤信号。

青年は先日、奴からひとひらの鬼火を強奪した。奴は消化できない経験や記憶を己から切り離し、放逐する悪癖がある。
普段は不法投棄と呼んで勝手に処分していたが………これだけは、どうしてもそうする訳には行かなかった。
だってコレは、やつから切り離された、この記憶は。
鬼火は何も語らず、パチパチと音を立てて燃えている。
ああ、懐かしい思い出の残り香よ。

………誰にも言えたことでは無いが。オルドオードの名で知られる所業の殆どは、青年『オルド・オード』が死んだ後のものだった。だから、生前の彼が善人だったという訳では無い。ただ、悪人でもなかった。生きていた頃の彼は優しかった。途方もなく愚かで、どうしようもなく不幸だった。悲しい程に人の心を知らない人だった。

記憶と記録を司る大家に産まれ、才能が特化しすぎたが為に排斥され。
優しさに飢えて、恋に塗れた。好きなものを好いて、好いて、好意以外は命と共に切り捨てた。
ただ間違え続けた。

そんな奴がある日出会ってしまったのが、これまた人間としては本当にどうしようもない天才だった。

天才はオルドの本質を見抜き、愛の“ようなもの“を与えた。
オルドは与えられた愛のようなものを、大事に大事に受け取った。
支えて、支えられ。共に命題を解き、共に学び、討論し、纏め、二人は煌びやかにその名を知らしめた。

そんな日々を、20年余り。
現世に置ける20年の長さなんて途方もない。幼年期から数えれば、人生の黄金期全てを捧げた様なもの。

彼らにとって、お互いのそれは紛い物だった。
けれど紛い物には。
​───────紛い物にも。

………ああそうだ。万能の天才とは、彼ら二人が共にあるからこその称号だった。

あらゆるを思いつき実現する頭脳と、奇跡を手元に手繰り寄せる幸運を持った男と。
その男が常に最大限のパフォーマンスを出すための全てを掻き集め、補える男。

二人でひとつの天才が、揃いも揃って見逃した。間違い続けた。それが、あの結末ザマだった。

2人して、2人して。全部間違えやがった。傍迷惑な痴話喧嘩だった。

「なぁ、オルドさん」

パチパチ、ぱちぱち。小さな小さな、拍手のような。まだ命にすら満たない灯火。最初で最後の、他ならぬ貴方達だけが気づかなかった本物。
蜘蛛の巣柄のハンカチを握りしめ、青年は立ち上がる。

「オルドオードはもう嫌いになっちまった」
「でもな、でもな。」
あの日々をくれた兄の貴方美しい青い春の記憶は、それだけは」

「まだ大好きなんだ。」

鼻を啜って、空を見上げる。マーブルの空に、切れ目が見える。
外界へ繋がる亀裂。
決別を告げる、かねのおと。
瞳を開く。もう涙は足りている。


「汝、オルドオードが分霊。偽名『青い春の記憶』よ。」
「お前をこれから異世界へ送り込む。」
「お前にはこれから、二つの試練が訪れるだろう。」
「心のままに優しさを貫ける黄金期今日。」
「黄金期に固執して、光を見失う晩年期今日。」
「…………その先は、俺にも分からない。」

あとはただ、微笑みを。貴方がおれにくれた様に。

「“何故、飽き足らなかったのか。“その問いに気づく時、お前は新しい明日へ臨むだろう。」







​───────かくして鬼火は、晴天の海へ落ちる。