Eno.937 吟遊詩人の日記

『“私”が消えた日』

 
最愛の存在に、冷たくあしらわれた。

あれから もうどれくらい経ったのだろうか。
私は未だふらつく身体をかろうじて支えながら、暗い森の中をあてもなく歩いていた。

空は真っ黒な雲に覆われて、雷鳴が轟いている。
今にも大雨が降りだしてしまいそうな、そんな天気。







何度も何度も、彼の言葉を思い出す。
思い出したくなんてないのに。


─『僕は君の事など知らない。』


あれはつまり、約束は守られなかった、ということだ。
…本当に、本当に、どうして生きてきたのかがわからなくなってしまった。

『帰れ』と言われたって、帰る場所なんて一つしかない。
けれど、そこは今や…一番いるのがつらい空間だ。


…だって、思い出すから。
楽しかった思い出も、忘れられてしまった事も。
もうあの愛しい日々は二度と戻らないのだと、否応なしに突き付けられてしまう。

これから長い時を、たった一人で、
悲しい記憶に苛まれて生きるのなんて、私はいやだった。








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ついに耐えきれなくなって、その場に座り込む。

視界がぼんやりする。
これは、歩き疲れたせいだろうか?
それとも、涙か……




───“いっそ、忘れられたら”





…ふと、悪い考えが 頭に浮かぶ。





(……………。
 あぁ、そうか…)

(……そうだ、忘れちゃえばいい)

(忘れないって言ったのに、
 私だけ忘れられるなんて不公平だもん)



(それに─)




(───忘れてしまえば、きっともう 苦しまなくて済む……)




そこからは早かった。虚空から杖を呼び出す。
そしておもむろに、地面に何かを書いていった。


「……………」




これでも魔法使いの端くれだ。
記憶を消す術なんて、簡単に扱える。
…今のこの精神状態で、正常に発動できるか…という点は、また別の問題だけれど。

ガリガリと音を立てて、魔法陣を書き続ける。
次第に雨が降ってきて、それは徐々に滲んでいった。


……それでも、止まらない。
このまま強行すれば、きっと術はおかしな挙動をするだろう。
要となる魔方陣が、不完全なものなのだから。

でももう、それでよかった。
何が消えたって。
だって、一番大切なものは、もう無いのだから。



「──ねぇ、兄さん」


「……さよなら、
 またいつか、なまえをよんで───」











その言葉を最後に術は発動して “私”は、消えた。
不完全な魔法は、私が望んだモノもそれ以外も、中途半端に消し去っていった。

きっともう、どれだけ自分が望んだとて 思い出せはしないのだろう。
再び彼に出会い、名前を呼ばれる日が 訪れるまでは───