Eno.937 吟遊詩人の日記

『“ボク”が目覚めた日』

 
目覚めた自分に残っていたのは、中途半端な記憶だった。

生きるために必要な言葉や習慣、身体に染み付いた技術の記憶は残っていたが、
どれだけ思い出そうとしても、自分の名前や直前までの記憶は何一つとして出てこなかった。


…そんな中、やけにはっきりとした記憶が、一つ。
吟遊詩人だれかのこと”だ。


どうだろう、これまでの自分はそうだったんだろうか。
楽器の一つも持っていないのに?

それに今、この場に残っているのは、
使い古された杖と、雨で滲んでいる魔方陣。

どうしても、どう考えても、何かが違う気がしてならなかった。


──それでも。
そんな矛盾したモノでも、信じずには、縋らずにはいられない。
それ以外が無いのだから。


だから、自分はその記憶を なぞることにした。


なぞっていれば、いつか自分のモノになるだろうか。
なぞっていれば、この不安と焦燥は消えるだろうか。

そう思いながら 誰かのフリをし続けた。








そうして、足りないモノを想像で補って。
少しずつズレて、捻れて、全てのきっかけも朧気になるくらいの長い時が経った頃。


自分はようやく、“ボク”になった。


よくわからない故に、己のことは頑なに話さない。誤魔化し続ける。
そんな己のことを聞かれてしまうから、同じヒトと長く時を過ごすのも、群れに紛れるのも苦手。

それなのに何かが足りなくて、苦しくて、
少しの楽しみを見出だすために ヒトと共にあろうとしてしまう。


そんな矛盾した思いを抱えた、一人の“吟遊詩人”に……。