Eno.716 仮の日記

泡沫:5


父親の具合は年々悪くなっていき、体の節々に鱗が増えていった。
あれが増えていくたびに父親は、少しずつ、止まっていく。
動けなくなっていく。
終わりに近づいていく。
村では、父親だけに出ている症状だった。

他の半魚人は、普通に生きて、寿命が来たら、普通に死ぬ。
心臓がゆっくりと止まっていって、死ぬ。
外から病気が運ばれてくることのない、孤立の村。
人間こそくれど、その人間たちは、念入りに病気を祓ってきている、らしい、とは、聞いた。

父だけがこのようにあること。
父は半魚人としても半端で、人としても半端者だった。
この村の村人たちは、口々に言う。

「外に出たからだ」


この村の人々は、みんな呪われている、のだと、父は言った。
呪われているのではなく、海がそう制限しているのだと、村長はいっていた。
けれど、それに対して、父親は鼻で笑って見せる。

「そりゃ真っ赤な嘘だ。ごあいにく様、誰も村人が外に出させないための嘘だ」
「若い子を、小さい子供を出させないための嘘にちげえねえ」

「昔、俺以外にも外に出ようとした奴がいて」

「村から少し離れた瞬間」

「水たまりになったんだよ、その体は」

──その時の村の恐慌状態といったら!
幸い、見ているものも少なく、秘匿され、そうして、以前にも似たようなことがあったのだと長は口にした。
そういい繋ぐことで、過去から今まで、ずっとずっと伏せられてきている。
村人を外にださないように。
呪いがかかっているなんて思わせないように。

俺は知ってる、ガキの頃に一度、あったことだからよ、と窓の外を見た。
窓の外には、青い海が揺れている。

「そんなことはどうでも良くて、閉鎖的なここにずっといるのはごめんだった」

「何かしたい。何かを見たい。こんな広い海もいいが、どこまでも広がる森の奥に辿り着きたい」

「…」

「俺は人に近い。外からさらってきた人間の嫁との間にできた子だからよ」
「いわゆるハーフってやつ」
「が、それでもこんなになっちまったから、呪いは確かにあんだろ」

鱗まみれとなって、神経も通ってないかのように、ぴくりと動かない手を見ている。
その手は青の鉄じみたなめらかな銀色が、外の太陽の光によって、ギラギラと、痛いくらいに輝いている。
反射して艶めいて。
けれど、それは水の中でこそ、美しく輝くのだ。
道標。
自分たちが、本来いる場所を示すように。

──水にはならなかった。

液体と化して、大地に染み込んだ、あの時の虚無には、ならずにいる。
ならなかったが。
外に出て、たのしき時を過ごすたび、サビ付きのように体を蝕んだ。
日を追うごとに増えていく。
それに呼応するように、中身も錆びついて動かなくなるようだった。
槍を振るえば手が止まる。
足を踏み出せば、力が抜けて崩れ落ちる。
無理に剥がしてみても、ただ痛いだけで、翌日には余計に鱗が埋め尽くしている。

その度に、海が恋しくなった。

あの冷たさが恋しい。
あの深い、深い、人が圧力で押しつぶされてしまうような奥底が、恋しい。
生物たちの暮らす潮の元が恋しい。
あぶくが、愛おしい。

それを、仲間に対し、口にしたことがあるのだと言う。
否、口にさせられた。
鱗の増殖がバレて、手首を掴み取られて叱られて。
渋々観念して、吐いた。

妖精の彼女は呆れたように、くだらないように、それから、ほんの少し不快なように、ある一つの予測を口にした。

「…」

「あんたたちは海の妖精たちの末裔で、末端」

「海の妖精は、海から出られないから」

「なのに、なんの悪戯か、子を成したあんたたちは、陸に上がってきている」

呆れてものも言えないわ。
妖精は人をからかうと言うけれど。
まさか子供を成すなんて!

「けれども奇跡はそれでおしまい」

「あんたたちは、その村から出られないのよ」

「水になるのもおんなじだわ」

「それは妖精に敷かれた罰則で、それがあんたたちにも適応されている」

「ま、薄れてきてるあんたみたいなのもいるけど」

「結局は」






「………」

「海に、ずっと呼ばれてんだ」

海の方を見て、父親はつぶやいている。
何度も同じことを最近呟いているのを、彼は聞いていた。
彼は海なんて呼ばれたことがない。
海は、ただ、居場所ではある。

「波の奥から、還ってこいと声がする」

「その声をずうっと、聞いているんだ」

「俺はその声に、舌をだして、それに逆らうようにして逃げ出した。いや、挑んだ」

自分の人生は自分だけのものだと。
そう言うように、かけだした。
海ではなく、陸を選び。

「……こうして戻ってきている」

「……ああ、」

「あァ、なんつうか、嫌だ、」

「俺は、ただ、旅を続けていたかった、」

「……結局、逆らえは………」

哀しそう、と言うよりは。
受け入れるしかないように。
父親の眼は、固く閉じられている。
大柄な体が、随分と小さく見えるようで、それがあんまりにも居心地が悪い。
彼はその姿を見て、くだらない空想を話してんじゃねえと、愛想のない答えを返していた。


最近。
最近、父親はすっかりと泣き言のような呟きをするようになった。
四肢が動かなくなって約一年。
一日中、眠りこけて、ああ、もしかしたら、なんて、揺さぶりかけたこともあった。
目を覚ました時、そこにあるのは安堵ではなく、平行線の冷静さだった。

いつでも覚悟はできていた。


きっと、近いうちに死ぬのだ。この人は。


その時に抱くのが、深い悲しみではなく、ただただ、淡々と受け入れて処理するだけになろうことに、彼は安堵していた。
生き物は生き、やがて、死ぬ。
それがこのひとにはただただ、早く、そして不快な形で訪れるだけなのだろう。
けれども、故郷の海のそばで眠れると言うのなら、それはまた満足なのではないんだろうか。
外に執念がある人ではあるが。
同時に、この村のことも、故郷として深く愛していた。
だからそうに違いないと思いながら。


夜になれば夕食を作る。

魚のアラのスープを飲ませて。

おやすみ、と声をかけて、別の部屋で眠る。

明日になるか、明後日になるか。
商人から買い取った、硬い布団の上で寝転んで。
横になって、瞼を下ろした。



──翌日。


父親の遺体は、砂浜に倒れていた、と、聞いた。
歩くことができないその人がどうやって、とか。
海でどうして、とか。

疑問は山ほど浮かんだが。

自分が起きて、砂浜に駆け出した時には、その姿はもう、なかった。


ああ、だから村のものたちで埋葬を行うのだと思って。
村長のところにかけて行った。
村を見回しながら、妙な感覚を覚えたが、そんなことはどうでもいいように、走った。

自分の父親が死んだ。
しかし、その遺体をまだ見ていない。
心臓は高鳴りっぱなしだ。
痛いくらいに。
その姿がないことが、不安だった。

冷静は欠けている。


「……………」

「は、」


村長から告げられた事実は。


──行商人たちに、その遺体が持ち去られたことだけだ。