Eno.16 ミオソティス

【0-3 アネモネの初恋】


 【0-3 アネモネの初恋】

  ◇

 ミオは毎日、シオンに会いに行った。
 自分で選ぶとびきり素敵な服を着て、
 楽しそうに外へ出て行った。
 その変化に父親が、気付かぬはずもなく。

「…………ミオソティス、少し良いか」

 出掛けようとした矢先、ミオは父親に呼び止められた。いつも構ってくれないくせに珍しいなと思いつつ、そちらを見た。
 父親の低い声が、問う。

「……お前は、恋人が出来たのか?」
「……何でそんなこと聞くの」
「最近のお前が、やけに嬉しそうに出掛けるからだ。分かっているだろうがミオソティス、お前に自由恋愛の権利なんてないぞ」
「…………シオンは僕の友達、それだけ。はいお父様、身の程はわきまえているよ」

 じゃ、約束があるから、と、ミオは足早にその場を去っていく。

(……言われなくても、分かっているさ)

 シオンが街を出るかミオの結婚が決まれば、この幸福も終わってしまう。今が楽しければ楽しいほど、いつか来る終わりが怖くなる。

「…………」

 思いを振り払うよう走って、今日も彼女に会いに行こう。

  ◇

 いつもの場所へ行ったけれど、シオンはいない。どうしたのかなと思って周りを探していたら、よく聞いている声が悲鳴をあげていた。

「やめてっ、放して!」

──声を聞いた途端、走り出していた。

 シオンが、僕のシオンが知らない男に腕を掴まれ、逃げようと藻搔いている。
 ミオは、自分が大して力のない人間だと知っている。自分のようにひ弱な人間が普通の男に向かっていっても、勝ち目なんてないことを。
 それでも、それでも、必死だったのだ。

「──シオンを、放せっ!」

 叫んで、男に体当たりした。無我夢中で男の股間を蹴り上げた。流石に悶絶する男を横目に、シオンの腕を掴んで走り出す。まずはともあれ、ここから逃げよう。
 走って走って、何処かの路地。ここなら安全かなと止まり、息を整える。

「シオン……大丈夫……だったかい……? どうしたの……何があったの……」
「わたしは……大丈夫......! えっとね……」

 シオンは話す。前からとある男に気に入られていたこと、その男に狙われるようになっていたこと。奴はミオがいる時は基本的に現れないけれど、今日は強引な手段を取られそうになっていたこと。
 シオンも美しい娘であるし、彼女はミオと違って家の後ろ盾もない。狙うにはちょうど良い存在なのかもねと、彼女は苦笑した。

「……助けてくれてありがとう、ミオ。嫁入り前の女の子が汚されるところだったわ」
「…………」

 ミオは、そんなシオンをぎゅうと抱きしめた。
 花の香りがする。目の前の君は、柔らかくて、温かくて、愛おしい。
 丸い黄金の目が、困惑したようにシオンを見ていた。

「……ミオ、どうしたの?」
「…………いかないで」

 シオンを抱きしめながら、ミオは小さな声。花の香りがする。この花を汚されそうになった時、ミオは自分の気持ちに気が付いた。

「……シオン、ねぇ、僕と一緒に逃げようよ。こんな街なんて捨てて、ふたりで何処かへ行ってしまおうよ」
「ミオ、いきなり……どうしたの……?」

 困惑する君の声。
 逃がすまいとばかりに、ミオの腕は淡紫の花を抱きしめている。花の香りがする。めいっぱい、吸い込みながら。

「──シオンは、僕のこと、
 愛してくれるでしょう?」



 我儘なのだと分かっていた、身勝手なのだと分かっていた。でもこの花が、この花だけが、孤独なミオの隣で咲いて、心から楽しそうに笑ってくれたから。

 歪んでしまった愛の行方は、何処へ。

 ミオは家のことなんてどうでも良かった。自分が消えたところでフロルの家はずっと続いていくのだろうし、自分を大切にしてくれたシオンならこの想いに応えてくれると思っていた。

 いつからか秘めていたエリンジウムの気持ちを、
 君に言おう。

 腕を緩め、身体を放し、
 ミオの青が真っ直ぐに、シオンの黄金を見つめる。

「シオン。僕は、君を、愛している」

 その陽だまりのような笑顔で無償の愛をくれた君なら、応えてくれると思っていた。ふたりで一緒にここから出られると思っていた。ミオは自分の身勝手な感情で、「シオンならこうする」と決め付けていた。愛を知らなかったミオは、ただ盲目だった。

「…………」

 沈黙の後、シオンは首を振る。

「……ミオ。わたしはね、
 あなたを友達としか思っていないわ」

 ふたりが向け合う感情は、釣り合わない。

「わたしはミオのことを友達として大好きだって思っているけれど、ミオのためにこの街を出ようとは思わない。だってここには……友達よりも大切な、家族がいるんだもの」

 ミオは、凍り付いた。
 シオンに親しい人がたくさんいるのは頭では分かっていたけれど、自分が一番なのだと思い込んでいた。ミオの一番はシオンになっていたから、相手も同じであって欲しいという、願望。

 ミオよりも大切な存在が、シオンにはいる。
 だからシオンは、この街をミオと一緒に出られない?

「言っておくけれど、わたしの家族に手を出したら、
 わたしはあなたのこと、一生許さないからね」

 釘を刺すようにシオンが言った。
 黄金の瞳は、悲しげだ。

「助けてくれたことは嬉しいし、あなたとおはなししているのは楽しいの。でも、それとこれとは話が別なのよ。ミオは賢いから、親愛と恋愛の差ぐらい分かるでしょう?」
「…………」

 ミオはうつむく。
 青の瞳が、揺れていた。

「それでも、友達のまんまでもいいと言うのなら、わたしはこれからもあなたと会うわ。あなたのその気持ちに応えることは、ないけれど」
「…………」

 ミオは、答えられなかった。
 黙ってうつむいたままのミオの手を、シオンが取った。

「……まぁ、何はともあれ、
 まずはここから出ましょうか。
 ミオはこんな路地からの帰り道、分からないでしょう」

 シオンに導かれ、見覚えのある場所まで来て。
 道中、ミオは終始、無言だった。

「……わたしは明日も街にいるわ。良ければまた、話し掛けてね」
「……シオンが街を出てったら、
 僕はまたひとりぼっちになってしまうのに」
「人生とは、出会いと別れがあるものよ」
「シオンがいなくなったら、僕はもう生きていけないのに」
「それであなたが死んでしまったのなら、
 お気の毒さま、でおしまいなのよ」
「ねぇ、シオン、お願いだから──」
「あなたの気持ちにわたしが応えることは、絶対にないわ。
 あなたはわたしに自分の身勝手を押し付けたいだけなのよ」

 それじゃ、と突き放すように、
 シオンは街の雑踏の中へ消えていった。
 呆然としたミオが、残された。

  ◇

 屋敷に戻り、大庭園へ。
 咲いていた赤いアネモネの花を、ばらばらに引き千切った。
 地面に散るその花弁は、血の色のようにも見えた。

 シオンと過ごすうちにシオンに惹かれていたミオ。
 立場からして叶わぬ恋だと分かっていたのに、
 諦められなくて告白をして。

──その結果、絆を失った。

「…………僕は、ひとりぼっちなんだ」

 ぽつり、ぽつり、透明な雫をこぼす。
 ミオの儚い恋は、終わりを告げた。

 孤独に咲く青い花は、
 ただ、愛が欲しかっただけなのに。