Eno.401 M.B.

カロッセロ

 生物には設計図が存在し、それを元に構築されるらしい。
 成長と循環はシステマチックに自動化されている。我々が認識できることはそう多くなく、コントロールできることもまたそう多くはない。

 それは合理である。
 意識しなくていいことは意識できなくていいし、意識できないのが望ましいのだ。
 或いは、都市と集団というものを一個の生命体と定義した場合にも、その道理は適応される。

 我々は、細胞である。細胞でしかない。
 設計図が存在し、生きることに意味がある。生きる意味を問う意味はない。

 それは、存在にとっての幸福である。







 中層下部に存在する児童養護施設「カロッセロ」の実態は人身売買斡旋所及び人間牧場だ。
 人間とは資材である。
 設計者の存在しない自立稼働型の極めてメンテナンス性の高い生体端末である。
 M.B.は比較的取り回しがいいが非力であったため当時とても安価に中層部の夫婦の手に渡ることとなった。彼らには子供が居なかったので、安価な労働要因及び後継者の存在を欲していたのだ。     
 欲しいものは欲しいときには手に入らず、諦めがついてから恵みを与えられるものとはよく言うが──彼らにとっての子もそうだったのだろう。
 M.B.が引き取られてから一年後と三年後に、彼らの間には女と男ふたりの子供が産まれた。M.B.は姉になった。

 それからというもの、彼らにとってM.B.はあくまでも予備でしかなかったのだろう。
 購入時の代金においてもM.B.の手伝いの労働費を考えれば元は取れていたのだろうし…それを考えれば、置いてきぼりはまだ良心的だったのだ。所有物ではなく、人間として扱われた証である。多分そうだ。そのはずだ。

 …借金取りに対するデコイでは決してない、とは、思う。
 実際、こうやって自分は借金のカタに売りに出されることもなくただ当てだけを失い彷徨っているだけだった。

 そう、彷徨っていた。
 彷徨い、流され、運ばれた孤島の上でもまだ。
 彷徨っている。