Eno.768 枇亘 透矢

【或る島と大樹の噺】


この奇妙な島に流れ着いてもうすぐ一週間という頃。
初めて蔦蔓と己の他に、誰かが居ることを知った。ヒトの気配……と言うには随分と主張の強い轟音と、空に咲いた光の花によって。


常と異なる温い手に助けられながら木々を抜けた先、鬱蒼とした森林の中にぽっかりと広がる光景に思わず鶸色を瞬いた。
どこまでも天高く枝を広げた大樹の下に小さくも温かい拠点が築かれており、そこで寄り添うように生活を営む者達が居たのだ。彼らを抱くように枝から影が落ちて……は、いなかった。

声を掛ければ、その樹が返事をくれた。どう視ても視界に収まらないくらいの大樹なのに、不思議と大人の人間くらいの空間に在るとも視える。
稀に良くあるズレではあるが、ここまでとなると滅多にお目にかかるものでも無い。慣れるまでは少しくらくらとしそうだった。


仲間として迎え入れて貰って共に過ごしたのは一日に満たない程の時間か。水と食料を分けて貰い、身体を清め、ひと心地。
それから、沈む島から脱出する為の船を造っているという彼らの手伝いをした。

出来上がった船は、美事なものだった。

『星渡りの船』

そう、名付けられた船には、確かに何処までも何処へでも航海できそうな、強い加護が宿っているように視えた。
荒削りで逞しい木の質感も、白くはためく帆も、眩しい程に鮮やかだ。

「――ちゃんと送り届けてくれるように言っておいたからね。」

樹が、そう言った。
嗚呼、そうか。


膝をつけば濡れてしまいそうな程に水位が上がってきた。樹が、まだ何かを創っている。彫刻というものの良しあしはよく分からないのだが、精緻な其れもまた、ひどく鮮やかであった。
其れを仕上げた樹の、揺れる葉の色彩も、また。

一日という短い時間では話す言葉の数もあまり多くはなく、だから此の樹のことは何も知らない。
唯、その石像の役割と……樹が行きたい場所は星の向こうにも無いのだろう、ということだけが察せられた。


故に。黙して、穏やかな声に見送られて、船に乗り込んだ。





船は出航した。
船尾から後にした島を振り返る。

やはり、其処には大樹が在った。
天へ届きそうなくらいに高く、海を翳す程に広く枝を開いた巨大な樹が。翠緑の大きな葉が梢の先まで花開くように茂り、照り輝くようだ。
そして太い根を、地を抱くように深く深く降ろしている。

誰も居なくなった沈む島と、ひとつになるように。




それから更に、どれ程経ったろうか。
世界を支えられそうな程に大きな樹は、船が島を離れてからも長いこと遠目にも映っていたのだけど。それももう目を眇めてようやっとという程に小さく、もう梢だけしか視えず、それもそろそろ水平線に沈むだろうか……という頃だ。

大樹の葉が、散り始めた。
鮮やかな翠のままに、風に吹かれたように舞い散る葉が光を乱反射して輝く。砕いた宝石を撒き散らすように。


その光景を静かに鶸色に映していたけれど、果たしてその先どうなったのか。
自身の葉の輝きに霞むような大樹の姿は、視届ける前に遙か彼方、遂に水平線にすっかり沈んでしまった。



「――……どうか、皆がちゃんと、かえれますように。」