RECORD

Eno.242 ミラ・レイフォードの記録

▓▓▓楽

 そうして、少女が産まれて5年が経った頃。
 両親は突如として、彼女への干渉を始めた。

 そこに深い理由はない。ただ、興味の在り方が移っただけだ。
 無を続けてもそこには何もない。それを理解した二人は、無色の器となった彼女をここからどう染めていくか、を考えるようになった。

 5歳にもなって、刺激を受けなかった少女の知能は、なにひとつ育っていなかった。幸いと言うべきか、父は他者を教育する才覚は備えていた。彼女自身にも、親譲りの才覚はあったのだろう。必要最低限の知識を、空っぽの器はすぐに吸収した。

 当然、だからといって普通の愛情を与えられたわけではない。こうすればどう反応するか、といった好奇心だけで少女と触れ合った。
 やはり悪意は何一つなく、暴力を振るわれたりもしなかった。ただ、反応を嬉々として確認していく二人は、おおよそ人の親ではなかった。

 仮に暴力を振るわれていたとて、少女はまともに反応しなかったかもしれないが。
 少女はこの時点で、『痛みへの忌避』『危機への恐怖』という、生物ならば当たり前に持ち得る反応を習得していなかったから。
 今なおそれは極めて薄い。

 唯一と言っていいまともな教育は、本を与えられたことだ。
 元々は知識を与える手っ取り早い手段として受け取ったそれを、少女は読み続けた。それ以外にやる事などなかったから。
 そうして、知った。世界には、様々なことが溢れていると。人は本来、楽しいという感情を抱くのだと。

「……たのしいって、なんだろう」

 分からなかった。正も負も、喜怒哀楽の全てが彼女には宿っていなかった。ただ、知識を得て、興味を抱いた。
 空の器に初めて、そして唯一注がれた、感情を求める心。

 だから、それを知るために、さらに本を読んだ。物語は、そこに映る外の風景は、彼女の心に微かな熱を灯した。これがきっとそうなのだろう、と少女は理解した。
 楽しいとは、良いことだと学んだ。だが、僅かに芽生えた感情を育むには、この部屋は狭すぎた。

 だから。8歳になる日、彼女はこう口にした。

「もっと楽しいことを、知りたい」

 両親はそれを喜んだ。やはり自分たちの子だと。
 そして、母は言った。

「じゃあ、最高に楽しいことを、してみようじゃないの?」



 その翌日。
 彼女は、遠い森に捨てられた。



 何ということはない。あり得ないものほど楽しい、という思考回路の母親は、少女の言葉を、最高にあり得ない体験を望んでいる、と受け取ったというだけ。そして自分もそれをしたくなったというだけ。
 父親も、その果てにこの歪な器がどのような末路を辿るのか、生きるにしろ死ぬにしろ、その未知を知りたいと思っただけ。

 破綻者たちは、どこまでも破綻していた。ただ、それだけの話なのだ。


 少女は、ひとりで彷徨った。
 全てが未知。そんな中で、生きる術など与えられなかった彼女が、生き延びられるはずはなかった。

(ああ。終わるんだ)

 彼女にも、それは理解できた。飢えと渇きに、少女は静かに倒れていた。

(……楽しくなかったな、僕の人生)

 最後に思う。この期に及んで、恐怖すらひとつも抱けず。一種、悟ったかのような思考にしかならない。

(外は、面白かったけど。こんだけじゃ、ぜんぜん足りない)

 初めての外は広かった。未知を知ることは、透明な心に色を与えた。それはこの状況においても、彼女が生まれてから最高の時間だったと思えた。皮肉にもそれは、彼女の両親と同じ。
 ゆえに、彼女が彷徨う時間で求めたのは、生き延びる術ではなく、楽しいと思えること、だった。
 だが、ずっと囚われていた少女の足では、辿り着ける範囲は狭すぎた。彼女の心を満たすことはできなかった。

(ああ。もっと楽しく、生きたかったなあ。生きられたのかなあ。生きておけば、よかった、なあ)

 それだけが、彼女の未練。それでも、少女はただ淡々と、己の終わりを受け入れようとして。



「おい! どうしたんだ!? 某の声が聞こえるか!? しっかりしろ!!」

 ならばこそ。それは誰にとっても想定外の悪運で。

「父さん! 母さん! 来てくれ、こっちに――」



 ――これは彼女が、ミラ・レイフォードになった日の話。