RECORD

Eno.54 アジュール・プリズムの記録

 

 約ふた月もの期間、迷い込んだ異世界で過ごし、消息を絶っていたアジュール・プリズムは心身共に疲弊していた。

 天使とは《主に愛された存在》である。アジュール・プリズムはこの世界に戻ってから大層鈍り、己の身体を動かす事さえも億劫だった。
 アジュール・プリズムは他の天使に比べて脆弱であった。けれども、それを補える秀でた権能を持つ。際限なく放つ事のできる弾幕、対象を追い続ける弾丸――神秘のエネルギーが凝縮された光球の使い手であるアジュール・プリズムは、神秘のエネルギーを操作する事に長けていた。
 そも、天使は、神秘のエネルギーを身体に蓄え、あらゆる攻撃に対して備える事ができる。天使は自らを自在に操る事により、神秘の力をより強く引き出す事が可能だ。アジュール・プリズムは、異世界転移という事象を体験した事で、神秘の力を十全に使いこなせず、権能の精度が落ちた状態に等しい。もともと不安定な存在のアジュール・プリズムは、常に己のみで制御しなければならない状況に置かれ、繊細な制御を求められている事に疲弊していた。


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 異世界での出来事はアジュール・プリズムにとって衝撃的だったのは勿論の事だが。何より、己の在り方を揺るがすものだった。異世界での日々が精神を蝕んでいた。心が、魂が、  していた。
 まるで呪いのようだった。


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 月夜の晩、アジュール・プリズムはひとり、夜空を見上げている。月は満ち欠けをせず。穴の空いたチーズ。

(……、……)

 空を見上げて、月と星々が瞬く夜空に目を細めた。路地の影に座り込み、ぼんやりとしながら、夜の空気をその身に受けていた。
 月と星々が瞬く夜空を見ていると、ぽっかりと穴の空いた心も満ちていくような気がする。心が空いている事を自覚しながら、それを慰めるかのように心を満たそうとするのは、独りよがりな行為に他ならない。癒しを求めた先の行為は、己の空虚を自覚するだけだと言うのに。

(星が、きれい)

 異世界での体験を経て、変化はあった。
 風吹けば崩れるような、陽にかざせば透けるような、儚い身体と魂に、芯が通るような感覚を得た。不明瞭から、明瞭に。曖昧から、明確になった。


"どんなに小さな光をも取りこぼすまいとする人たちがいます"


 異世界で出会った人。淡い、仄かな憧れ。あの世界で過ごした時間の中で、芽生えたけれども。アジュール・プリズムは、己の心を砕く事を止められなかった。


"生きていてくれ" "    " "私を、忘れないでくれ"


 多くの者に好意があって、一線から踏み出さないでいる。それは愛ではなく、恋でもない。
 膝の上で握り込んだ薬莢が、熱く感じる。キーホルダーの感触に安堵する。アジュール・プリズムにとってのお守り。

"おまえはいいよ。消えちまうんだから"


(善意、を、)
(心を、)
(踏み躙り、砕くつもりは)

 アジュール・プリズムは、弱っている。心が脆くなっている。
 罅割れた心を慰めるのは、夜だけで。自分を知る世界は、人は、どこにもいなくて。
 追跡型だが異世界へ渡る力を持たないアジュール・プリズムは、ただ、不自然に開いた空席に居座って、過去の思い出に縋って此処に居た。



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(──────────)

 何を、してるのだろう。自分は。
 帰らなければならないのに、帰りたくないと思っていた頃。
 帰りたいと思っていたのに、 己を知る者がいない場所に行きたくなかった。
 ひとりには、なりたくなかった。




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「…………」
 あの世界から戻って、どれくらい経過したのか分からないけれど。
 伊藤千春の成人式は近かった。





                ✧

「………………」
 会いたい、と思うのは傲慢だろうか? 自分にその資格はあるのだろうか? また会って、くれるだろうか?
 また、そばに、いてくれるだろうか。


"ただ一緒にいるだけでいいんじゃない?" "知るのは後でも"






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"おれのことをずっと憶えていてほしい"
"               "
"              "
"またおれにあいにきて、それで、おはなししてほしい"
"……               "




「……」
 伊藤千春よりも小さな指は、キーホルダーの蓋に指をかけた。