RECORD

Eno.563 一つ目の蜻蛉の記録

薄翅:Ⅴ

ヘッドマウントディスプレイを外す。
真っ青で現実感のない、スタジオ。サポーターを、命綱を取り外す。非常灯の下のドアを開ける。何も無い、部屋。
そっと廊下から他の部屋の様子を覗き見る。さっき見た感じでは母さんはログインしていたようだったけど。生物の気配はない。リビングも、玄関も。分厚い、家と外とを隔てる壁。それを行き来できる玄関扉に、手をかける。──ああ、靴を履く必要があるんだっけ。でもそんなもの、スタジオで運動する用のものしかない。これで行くしかない。

ロックのパスコードはかろうじて覚えていた。僕は家の外に出た、数年ぶりに。

視界を白く照りつけるのは、太陽の眩さか。肌を撫でるのは風だ。まだ少し温い。足首をくすぐるのは雑草で、向こうに雄大な山が見えて、杉の木が風に揺れている。用水路を水が流れている。空は青く澄んでいて。

だけれど、異様に静かだ。

僕は落胆した。そのどれもが、作り物のように感じてしまったからだ。あの世界で、あの闘技場で感じたリアルと比べて。

そんなことはいけないはずだ。歩く。整備されておらずひび割れたアスファルト。へしゃげたガードレール。森へ分けいる獣道。段差や斜面や埋まっていた石に慣れていなくて、転んで擦りむいてしまったのに、傷があるのに痛くない。
もっと大きな傷を負えば、流石にわかるだろうか?高台に出た。足元は崖になっている。──そんな馬鹿をできるほど、幼くはない。

さあざあと風が吹いている。僕の家のある集落には、今は僕の家しかない。放棄された住宅の廃墟が並んでいる。不便さが機械とネットで改善されたので、母は自然の多いこの土地に越したのだ、と聞いている。

もう10年くらい、リアルで人に会ったことがない。母以外の人間に。
もちろんVRでの学校の友人はいる。だけれど高校からは個別授業が増えているし、ゲームはソロプレイを好んでやっていた。学校は全国どこからでも通信教育で通えるようになっていて、友人と会いたくても物理的に会える距離でもない。

僕は何者なんだろう。僕はどこに立っているんだろう。僕は何のために学んで、何のために戦うのか。
本当に、この世界はリアルなのか。
本当の僕は、どんな姿をしているのか。

「ヨウ!」

母の声が聞こえる。とても心配され、怒られるに違いない。最近様子が変なのは自分でもわかってる。メンタルの先生を紹介されるかもしれない。
ゲームの制限をかけられなきゃいいけど。あの世界でしか味わえないものが、あの世界でしか会えない友人がいるというのに。

あの試合の上でしか感じられない、生の実感を。
こんなにも欲しいと思ったものは、他にはなかったかもしれない。

僕は、剣闘試合に。
リアルを賭けたいとまで思っている。




そういえば。
蜻蛉はおろか、虫の1匹も見なかった。