RECORD

Eno.160 クララの記録

クララにとって、海を見るのは初めてのことだった。

フラウィウスの海は青かった。
ロビーを抜けて、ぐるりと周り浜に降り立つ。
手にはタマゴサンドイッチとレモネード。
テラスから覗く海を間近で見に来るのは、クララにとって少しばかりの冒険だった。

彼女のいた世界に海は無い。
知識にあるのは、有害に世界を支配する大穴だけ。
テラスから眺める時、海もまた、青い穴なのだろうと思っていた。

「これはオイル…? いいえ、水…?」

海は大量の水で出来ていた。
押し寄せたかと思えば引いていくさまに、おっかなびっくり慣れていく。
地中海にも似た波は、穏やかに泡立っていた。
 
クララは暗き穴の淵に捨てられていた。
だから『クララ』とスラムの子どもたちに名付けられた。
単純な理由だが、クララは自分の名前が嫌いでは無かった。

「海の側だったら、ウミミだったのかしらね」

冗談をこぼしてタマゴサンドイッチを一口かじり、地平線を眺める。



突如招かれたこの世界には、安全があった。
腹の満ちる食事と、贅沢があった。
スポーツに興じ、声援を受け、談笑を楽しむ豊かな暮らしがあった。


よく酒場にいる白い天使が、酒の席で言っていた。

「天国は、一度行けば帰りたくないくらい住み心地がいい場所なのだろう」

何一つの不自由も無いこの地は正しく、クララにとって『地上の天国』であった。

寄せては返す波から視線を上げ、死神の手紙を開く。
「……そうね」

クララには、最初から分かっていた。
帰りたくないほどに、住み心地が良かろうと。
天国は、終着の地では無い。



「わたくし、渡航券を買わなくちゃ」