RECORD

Eno.423 モルドの記録

怪物にも王子様にもなれない何も知らない男

男は何も知らない。
自分が人質になっていることも。
お嬢様が血を恵んでくれる理由も。
何も気付かず、与えられるまま、豊かな暮らしの中にいた。


そんなところへ訪れた、とある闘技場の話。
興味を持ったお嬢様の命令で、男は送り出される。

男は何も知らない。
少女が男の手を離す覚悟を。
それが一時のものにならず、新しい場所で受け入れられ、
二度と帰ってこないのではないかと、恐れていることを。

それでも少女は送り出す。
降って湧いた話に、かすかな期待を込めて。
強くなり、何者かになって帰ってきてくれるのではないかと。

もし、帰ってこなくても。
受け入れるしかないと、少女は思っていた。
男の手を引いて、暗い可能性に近付けた罰。
それが自分だけに下るなら、仕方がないと。


そんなこと、男は何も知らないまま。

青い顔で出発し。
怯えながら異国に着き。
怖気づきながら武器を選び。
恐怖で目を見開きながら闘い。
食堂で出された熱湯で火傷し。
他の闘技者たちと食事を囲み。

やがて。
青い顔から怯えは消えていく。
闘いの最中の恐怖は抜けなくとも。
闘技場へ向かう足から震えは無くなる。
この土地で得た友人たちに、勇気を貰っていたから。


男は怪物になれない。その可能性が無いから生かされている。
男は王子様になれない。日陰の生き物に輝く可能性など無い。

けれど。
いつかお嬢様から、すべてを打ち明けられた時。
手を引いて明るい場所へ連れ出すために必要な強さ。
その程度のものなら、この闘技の地で、得られたから。

いずれ、メイドとお嬢様の物語は終わりを迎える。