RECORD
◆潤滑
「──今回渡航した異世界についての報告は以上です」

「……ほーん、」
質素な家財が置かれた一室にて。
シアーナ・ラナスは対面の者に一通りの説明を終え、緩やかに頭を下げる。
礼を向けられた黒衣の壮年の男は、パイプを片手に煙と共に息を吐き出し
頭を垂れたシスターを一瞥した。
──司教、クランベル・エルスィー。
本人に拘りが無く司教と自称しているが、そのひとこそ
この宗教を統べる教祖であり、教皇であった。
無精髭を軽く撫でては、報告を聴いていたもう一人の男へと視線を向ける。

「ンなるほどねぇ。
鍛錬には事欠かない世界だったみたいじゃねぇか、
時間に余裕があったら他のヤツらにも行かせたかったが
……ま、時期が悪かったな」

「生憎、時勢を見るなら動くのは今しかない。
勇者に魔物の数をこれ以上減らされるのを
悠長に見ては居られないからな、
今からよそに人を遣る余裕はないだろう」
クランベルに侍るように傍に居た白衣の男──
司祭ヴェセンス・パルカージは同調するように溜息を吐く。
その手には羊皮紙と羽根ペンがあり、先のシアーナの報告を書き記していた様子だった。

「それで?シスター・シアーナ。
お前は計画の実行は問題なく出来るか?」
「…………」
シアーナは少しだけむっとして、司教の姿を睨んだ。
己の意志に淀みは無く、異世界渡航ごときでそれを疑われるのかと
浮かんだ不満を言葉にしようとしたところで、クランベルは否定するように軽く片手を振った。

「お前の意志を疑ってるわけじゃねぇ。
ただ、こんな狭い世界じゃなくて他の世界を知ったんだ、
それに憧れたり、そこに何か大事なものを見出したりしてるなら
お前に責任を負わせたくねぇって事」
ふ、と煙とともにクランベルは、小さく笑う。

「お前が流れて行きたいのが、この世界じゃねぇなら
それを尊重してやりたいってワケだよ」
──この司教もまた分かっているのだ。
自分たちの成そうとしてることが、無謀なことなのだと。
停滞は淀みである、緩やかな破滅である。
それを認め、手を打たねばならないとして、
打破する手段は暴力しかないのだと理解しても尚、
停滞を愛する境会に歯向かうというのは、正気では無い行為だと。
シスターも、司祭も、司教も、分かっているのだ。
だからこうやって確認されるのだろうと、シアーナは思った。
異世界に触れたものがその意志を揺らがせる可能性は、少なくないだろうから。
出会った人や友人の姿をふわりと脳裏に浮かべた後、
シアーナは一度瞳を閉じ、それからクランベルを見据えた。
「…………お言葉ですけど」
「あたしが引っぱたきたいのはこの世界の人間なんで。
他の世界のヤツらなんて、叩いたって仕方が無いのよ」
──ただ。
支川に選ばれた時からずっと、流れる場所は決めていた。
シアーナ・ラナスにとって友情は、引き留めるものではなくその背を押すものだった。
約束は、生き残るための意地であった。
それらは立ち止まるための理由になり得ない。
「自由に流れるのは、大海に至った後にします。
だから川が逸れる心配なんてしてないで、
本気で引き金を引いてください」
そも殉教するつもりなど微塵にも無い、
世に混乱と混沌を齎して終わりにする気も、もとより無い。
だから、その意志は揺らがなかった。

「…………、」
「そうか、」
……そんなシアーナの表明に、クランベルはただ
何とも言えなげな顔でパイプの煙を吸った。
*

「……クランベル。らしくないな、
シスター・キディアの時とは違って成果があったんだ、
少しは喜んだらどうだ?」

「……いんや。まあ、シアーナはよくやったのはそうなんだが、
魔晶石とかいう土産も扱いようがあるし、マンジュウとかいうのは美味かったし。
…………。そう、最近うちのおひいさまがうるさいもんでな」

「…………。お熱いようで何より?」

「違ぇ」

「…………ティアー様の事を
手のかかる子どもみたいに言うのはお前ぐらいだな」

「…………なあ、ヴェセンス。
……アイツが言う通りになってる気がすんだよ。
『勇者』に花を持たせるために
俺たちが用意されているような、そんな」

「……今更、止められやしないぞ。
この作戦も、この思想も」

「分かってらぁ。
俺に甲斐性はねぇが、ここで何もかも投げ出すほど
人を辞めちゃいねぇ。
たとい魔王だと誹られようとな」