RECORD

Eno.637 ナルシテート・スラミガル・ビビの記録

白い部屋

その部屋に向かったのは、半分ほど事故のようなものだった。
一番嫌な事を思い返された。無遠慮に、無常に、無粋に踏みつけられた情愛の記憶。
他者にそれを掘り返される事ほど傷口が開くものはない。
何かに縋りたい瞬間というのはどれだけ意地を張っていてもあり、手を伸ばしたのが引き出しに投げ込んでいたあの鍵だった。
淫魔プラエド
あの最終日にすさまじい修羅場と浮気現場みたいな事になっていた多情のアレは随分と聞き上手で、毒々しい甘さのある輩であった。
アレ結局、どういう関係だったんだろうな。
初恋の妻一筋で、未だに過去に囚われた竜人ドラゴニュートにはとんでもなく爛れているとしかわからなかったんだが。
元から学帽の子異色に懸想していると聞いていた身として、褐色肌の男アルアと肌を合わせた───ように見えるアレは、振られたのかしらと誤解していた。
その後なんか一緒に旅行行ったらしいとも聞いたので頭の中では修羅場ツアーが掲載されている。

取り出した古臭い鍵に掌の熱を吸わせる。
種に偏見あれど彼個人が嫌いなわけではない。話し相手としては気安く、良くも悪くも傷に近い男だった。
女体化ビーム乱射の際の事故で拗れた関係だったが、娘の事を多少明かした身として、口と涙腺が軽くなりやすかったのを覚えている。
最終日の事は横に置いておいても、こういう時にいてくれればいいのに、と思うのは単にアレがぶれないからなんだろう。
淫魔って、そういうのが得意だ。
少なくともナルシテの世界では皆話上手で、懐に入るのが早い連中だった。ああなるほど、今更ながらに熱を上げる連中の事をただふしだらだと見下していたが、そういった弱さに漬け込む悪辣さもあるのかもしれない。
良くない兆候だ。もう会う事がないだろう相手に今更泣きつく気もない。
鍵を引き出しに戻そうとして、ふと。不審な扉が目に入った。
なんの変哲もない部屋の扉に見える。
不信に思って、ナルシテはその扉に近づいた。鍵がかかっている。まさか、と思い鍵穴に合鍵を刺すと、簡単に回った。
「……合鍵って、そういう?」
渡す相手間違えてない?ということと、間違えてないとして、じゃああのこっちの悪戯全部無意味じゃねえかよという理不尽な怒りがあった。
ぴりっと眼球が熱を持つのを感じながら、扉を開けて。

───一見すると普通の部屋に見えた。
目につくのは本棚とテーブルとイス。あとは細々とした調度品。
全体的に落ち着いた、柔らかな基調の家具で揃えられている。
部屋の端には植物も置かれている、ナルシテの知らない植物だった。持ち主の趣味が窺えた。
窓はなく、見上げても照明らしいものはないが不思議と丁度良く明るい。
静かな部屋だった。
BGMすら存在しない、人の気配を残した部屋に開けられたばかりの傷口から血が噴き出した。

フラッシュバック。
娘と静かな部屋。
みたくない
義妹だらしなくほうりされ手足

静かな部屋無駄な努力ご苦労様!

「はっ……」
どっどっどっどっどっど。心臓の音が痛い。呼吸が浅い。
眼の裏に広がる幻覚がすさまじい。今までより一番生々しい。咄嗟に扉を閉めて、逃げ出した。
震える手が自室の楽曲機の流す音のボリュームを上げる。
鼓膜が痛くなるほどの音が耳に流れた。沈黙が殺されていく。

「は……はっ、はっ……はっ……う」

彼が悪いわけではない。きっと、一人になれるようにと融通してくれたのだろう。
開けるタイミングが悪かったな、とナルシテは吐きながら後頭部の冷静さがそう呟くのを聞いていた。
過去を掘り返されたばかりだった。過去を嗤われたばかりだった。過去を、見つめ直したばかりだった。
赤い目がまた涙を浮かべる。

「うえ」



赤黒いかけらが割れた舌先を鉄臭く落ちていく。