RECORD

Eno.637 ナルシテート・スラミガル・ビビの記録

天国と地獄

「義兄さん、天国とか地獄ってあると思う?」

義妹のマルチェラは薄く笑いながらそうナルシテに問いかけた。
マルチェラは活発なジゼルとは違って、物静かで、大人しい耳長エルフだった。
青い髪に青い目。光の加減によっては緑にも見えるその目を悪戯っぽく笑ませている。

「そりゃ、天の上と、地下では?天とか地とかついてるし」

ナルシテはそう答えた。
たいして考えた発言ではない。見るからに興味の薄そうな答えだった。
あんまりな答えに、マルチェラの頬がふくりと空気を含む。ポーズとしての抗議だ。

「安直すぎるよ。もっと凝った答えが欲しいよ」
「そう言われてもね。一応名目上は聖神教ですけど、基本的に無神論者ないんですよ。
天国とか地獄とかいわれてもね。
そういう、なんですか?神様が管理してるとか言われても、そういうこう……上位種族の牛耳ってる御国なんだなとしか思えません」
「えー?」

亜人種が増えたこの世界では、多少変わった力の強い何某が出てもそう珍しい事ではない。
身もふたもない話をすれば迷宮ダンジョンの乱立により、未知なるエリアも多いため、そういった場所にそういう存在がいて魂が集まる場所があるんですよ、と言われたら普通に納得してしまう。
それはそうとして発見されれば、こっちのルールにどれくらい従ってもらえるか、というところが竜人種であり、この世界の上位種の端くれとしての責務を背負うナルシテの興味だ。
それの有無に関しては疑念を抱く必要もないが、実際実在されたら困るな、という程度の認識でしかなかった。
現実主義と言われればそうかもしれない。
ナルシテは不満そうなマルチェラに、おざなりな謝罪を述べて、改めて彼女の考えを仰いだ。

「そういうマルチェラはどこにあると思っているんですか?」

マルチェラはきら、と目を輝かせた。
やっぱり。この手の話は大体マルチェラ独自の意見があり、賛同を求めるから振られるものだ。
分かりやすい仕草に少し笑いが漏れかけ、ごまかすようにナルシテは自分の口元に触れる。
そんな仕草に気づくこともなく、マルチェラはにこにこと持論を述べた。

「頭の中」
「頭?」
「ほら、世界ってさ。主観じゃない?」
「主観」
「私が感じた事と、ナルシテ義兄さんが感じる事って同じじゃないの。
甘いものを食べても、おんなじ甘いにならないし。同じ景色を見ても同じ感想にはならないでしょ?」

私的な主観が、外部に実在する客体を、心象等の意識内容を媒介にして認識する。
そういった主観の積み重ねが世界というものの輪郭を作り上げるのだ、とマルチェラはまるで知識人のようにかぶれた思想をひけらかした。

「それと同じ。死んじゃった人がどこに行くかなんて、私の受け取り方一つだと思うんだよね。
嫌いな人が死んじゃったら、頭の中で好きなだけ地獄に落としていいし、好きな人が死んじゃったらうんと胸の内で幸せな眠りにつかせてあげるの。
だってその人はこの世にいないんだもの。どれだけ考えても、結局今その人がどこにいるかなんて空想の余地でしかないと思わない?」
「言いたいことは分かりますけど……、なんだかちょっと傲慢な気がしますね」

マルチェラの考えは、極端に言えば死者の尊厳を死んでいるからという理由で妄想でもてあそぶような危うさがあった。
それを良い、と肯定するには少しばかり独善といか、自己満足が過ぎる気がする。
死者の尊厳に手を出していないか?と言う引っかかりを覚えてナルシテは少し苦言を呈した。

「でもきっと遺された方はそっちの方が気持ちに整理がつくよ」
「気持ちの整理」
「ほら、死に逃げってあるじゃん。何かする前に死なれてさ、拳の振り下ろし先がないっていうか。
そうじゃなくったって勝ち逃げするというか、虫の居所が収まらないまま終わることってあるでしょ」

手で空気を捏ねながら、マルチェラは言語化をうまくしようと言葉を選び出す。
思考がとっちらかったまま話し始めて、会話中に整理しだすのは彼女の悪癖であり、面白い所の一つだった。

「いつかたくさんの時間が過ぎたらさ、声も姿も忘れて行って、ぱっと思い出せなくなるの」

嫌いな人の仕打ちは長く忘れない。
恨み骨髄。しかし骨髄とは代謝によって入れ替わるもので。

「そしたらきっと嫌いな人も赦したってことになるの。ほら、言うじゃない?
人って二度死ぬんだって。忘れた時が二回目の死。地獄に堕ちた人の事を忘れて解放してあげるんだから、優しいものだと思うんだよね。
無理に許せないことを死んだからって許さなくていいと思うんだよな。
死ぬって、贖罪じゃないじゃん?どーせ忘れちゃうときが来るなら、忘れちゃうまで、許さないままでもいいと思うんだよね」

それはある種、長命種らしい考えだった。
長く生きる生命は、物事を長く記憶にとどめるのが苦手になっていく。
それを老化と取るのか、それとも防衛本能と取るかはさておいて、長く生きるという事はそれだけ経験と記憶を積み重ねていくことだ。
膨大な本を収める図書館の中から本の記述一節を見るために探すのが大変な事であるように、いつか憎悪も埃をかぶるときがくる。
繰り返し思い出すならもっといい本がいい。手元に置いて引き出せるものはもっと素晴らしいものがいい。
そうでなくても勝手に積みあがるものがあるのだから。
いつかそれが最下層に堕ちるまでは嫌っていてもいい。なんて。
只人などの短命種であればやや受け入れにくい内容だったかもしれない。少しばかり、達観したというか、ナルシテの周りの中でも特に大人びた思想であった。

「その理論だと、好きな人も二度死にませんか」
「好きな人はとっとと死んだなら死なせてあげるべきじゃない?」

しかしそれだと、いつか頭の中の花園に眠るものだって思い出せなくなるのではないだろうか。
いや、場合によっては嫌いな連中よりも早くに思い出せなくなるのでは。
そんなナルシテの問いかけに、マルチェラはあっさりと笑った。

「私、来世って信じてるんだよね。何かを見て、面影を感じて、それを慰めにしてよ」

無茶苦茶ないいようである。
前向きな口ぶりに見えて、何も残す気がないと言いたげなそんな言いようだったし。事実、彼女もそうできる、そう割り切れると信じているようだった。
軽い口ぶりに、ナルシテは少し笑った。

「あなたって意外と刹那主義ですよね」
「姉さんはロマンチストだから一生引きずってほしそうだけどね」
「言えてる」

昔の話だ。