RECORD
Eno.637 ナルシテート・スラミガル・ビビの記録
愛していた
愛する家族みすみす死なせてしまった私は世界で一番不幸だと思った。
彼女達が私の幸福だった。その彼女達を失って、世界が終わったとすら感じた。
自分の目の前にあるものが不意になくなり、暗闇の中で孤独になる。
行き場のない感情が喉を締め、肺を潰し、心臓をずたずたに切り裂いて、脳が腐って頭蓋の中で役立たずに浮いている。
それでも体は生きている。
感情だけが血管を巡っていた。
情動に任せて過激派亜人団体を潰して回った時、もう何もかもがどうでもよかった。
罪のないものまで噛み殺した。この時点で私は私の家族を襲った連中以下だった。
ケダモノのように自分の不幸に酔って、ただ不幸な人々を家族を理由に殺していた。
復讐を理由に、失った悲しみを暴力で埋めようとしていた。埋まらない事くらい知っていたのに。
復讐は己の為にするのだと言う。やらないよりやるべきだとも言う。
だけど私の行ったあの復讐は、ちいとも私と家族を救ってはくれず、ただ罪と死人だけを増やしていた。
どこかで期待していたんだ。彼らがおとぎ話のように私を殺してくれることを。あるいは、ラデュレのような勇者が正義の元に私を一刀両断してくれることを。
勧善懲悪を期待していた。彼らが行った事に私が憤ったように、私が行った事を誰かが裁いて復讐の正当性を断ち切ってくれるような……。
しかし、現実はどこまでもご都合主義で、私は許され、不幸な彼らは私の足元で潰されたアリも同然であると断じられてしまった。
私はこの世界の格差を知り、彼らが私の家族を殺した動機に正当性の欠片がある事を認めてしまい、私の過ちはどこまでも根深いのだと知った。
正しい事など、明確には存在しない。
善悪とは法の元で簡単に覆るのだと知った。
心はもうとっくに死んでいるのに、誰もかれもが肉体の死を許さなかった。
逃げることを決して許さなかった。
そして許されない事に、ほんの少しだけ救われてしまった。
私は尾を踏まれたあの日に、変質した。
月日が立つにつれて、悲しみは以前より致命的なものではなくなって、慢性的な偏執へと変わった。
傷は膿み腐り、骨が見えていたけれど、悲しみと言う点ではだいぶ麻痺しつつあったんだろう。
自分をだまし、明るい狂人としてビームを撃ち、悪党を蹴散らし、領主として過ごしている内に、私の偏執はねじれていき、自ら作り上げた忙しない日常に埋没しながら悪化させていく。
時にそれを酷い罪悪感として覚える。
なぜ私は生きているのだろう。
家族の死を無駄にしないため。
殺した者たちへの贖罪のため。
正しい事実を少しでも長く覚えているため。
それでも、この世界に私がいてもいいんだろうか。
たまに、そう思う。
現実は天国でも地獄でもない。ただの巨大な土くれの上に、人がいるだけだ。
そこに私の居場所を置いていいのだろうかというためらいだった。
きっと私は長い時間を生きる事になるんだろう。
艱難辛苦に満ち溢れた、異界や異世界に繋がる穴ぼこまみれの、この世界。
自死を選ばず、誰かに殺されたとしても、蘇生という手段があるこの世界では私はきっと満足な死を選ぶ事はままならないのだろう。
マルチェラ。君は今どこにいる?来世に向かって、君の面影を探している。君は今、何かに転生して私の頭の外で穏やかな暮らしを享受しているだろうか。
カルラ。私の可愛い娘。君が生きていたら、あの二人を見てなんて言っただろう。明るい紫の目を輝かせて、妹みたいに可愛がってくれただろうか。君は内気だが母親に似て、まっすぐな子だったから、私と違ってあの子達の手を引いて、対等に抱きしめてあげていたのかもしれないね。
ジゼル。
最近は君を思い出すことが、だんだん減ってきている。
領地に帰り、館へと戻った。
やることが多い。これからうんと忙しくなる。異世界人を受け入れるのにはまずこの世界の事について知ってもらう必要があった。
ラデュレの働きかけで、亜人認定のもらえていない種族の受け入れも行う。異世界の事を知れば、国のお偉いがたも放置はしないだろう。説明と、これからの利益の事について考えなくては。
部屋の扉を開ける。
使用人達はそっと頭を下げて、私が帰ってきたことに安堵していたようだった。帰ってこないと思われていたのかもしれない。心配をかけたとねぎらいをかけて、ついてきた彼らを客室に案内するように頼んだ。
私は自室へと一度戻り、テラリウムブックを開く。少しだけ一人になりたかった。
彼らから離れたかった。
内側。
茜色の世界が広がった。もう失われた光景が広がっている。
私と彼女が育った村。みすぼらしく、質素な、名もない画家の作り上げた絵を元に象られた私の過去の記憶の一部。



彼女達の声がまだ耳に残ってる。
死の直前のジゼルは手酷く手折られた枯れた花のような腕で、
白を通り越して崩れてしまいそうな肌の色で、
雨に打たれ続けてひび割れた脆いガラス細工のような体で、
少しずつ光が失われていく瞳で。
私に呪いを囁き続けていた。

どうして私はいつも間違ってしまうのだろう?
どうして私は誰かを幸せにしてやれないのだろう。
どうして私はこんな風に生まれてきてしまったんだろう。
どうして私は生きて行かないといけないんだろう。
愛すれば愛するほどあなたたちを傷つけ、誠実と理想から遠ざかっていく。
願えば願うほどに何もかもを置き去りに、私の夢見る平穏がずたずたになっていく。
正しいと選択した道は、理不尽と無力感が敷き詰められている。
覚悟をもって前を向き歩き出しても、もっと大きな苦しみを抱えた誰かを、私は救えやしないんだろう。
ジゼル。
カルラ。マルチェラ。
過去にしかない愛する人たちの微笑みは、無垢な天使のそれよりもはるかに美しい。
だけれどその美しい笑みは、やがてゆっくりと惨劇に濁り、赤黒くよごれていく。美化のヴェールがはがれて、その陰惨さがあらわになる。

あなたは、いつも気持ちをごまかす時、目を閉じて笑う。
脳裏に浮かぶあなたは、崩れながらもその顔をしていた。
でもはたして、こんな顔だっただろうか。
髪の色はもっと鮮やかではなかったか。目の色はなんだった。唇は。耳の長さは。頬の色は。
ジゼルの微笑も、カルラの悲しい瞳も、マルチェラの泣き顔も、もうとっくに私が勝手に作り出した嘘に塗りつぶされているのかもしれない。
巣のようなベッドに沈み、なつかしさを感じる肌触りに溺れる。
目を閉じて昔の事を思い返した。ごわごわとしていて、色あせた幸福の思い出。
裏山の獣道を辿って、木の実を摘んで、子供のジゼルと一緒に探検をしていく。二人で見つけた小さな木のうろに手を突っ込んで、ジゼルはナルシテに向かって笑った。何かを言っていたが、何を言っていたか思い出せない。

赤らんだ空の下、田園風景の下で同じ色のスカートを翻したジゼルは笑っていたようだった。

マルチェラが暖炉の前で編み物をしていた。毛糸玉が膝の上から転がって、もつれながら転がっていくのに慌てて立ち上がり、他の毛糸玉も落として思わず笑い声をあげていた。

家の庭に生えた大きなリンゴの木の下で、小さな実を齧ってカルラが酸っぱさに首を竦めている。輝かしい紫の瞳をほころばせて、照れくさそうに濡れた唇を袖で拭いていた。

記憶の中で三人の女は互いを抱きしめ合って、黙って男を見ていた。まつ毛を伏せて、うっすらとほほ笑んで、肌と肌を寄せ合い、寂し気にしている。
遠い。

呆れたと言わんばかりの顔で、真ん中のジゼルがナルシテを見る。
穏やかな風。夕陽が彼女たちの影を長く伸ばしている。

美しい黄昏時。
顔はまだ崩れない。この時たしかに私の頭の中に天国はあった。
愛しい家族達はその中心で、穏やかにほほ笑んでいる。私はその中にはいない。

郷愁の匂いがする。わずかに湿り気のある森の風だった。
ほのかに夕食の匂いの混ざった懐かしい匂い。あの村に漂っていた、穏やかな平和の匂いの風。ジゼル、あなたがカルラもつれて見せてあげたいといった、村の夕陽と風。

私は貴種だ。私は竜ならず、しかして人でもない。
役割がある。求められている。
病んで間違えばかりの私にも、まだなにか与えられるものがある。
そうおもうよ。
失ったものはどう足掻いても取り戻せない。
開いた穴を埋めるものはない。
それでも人は、穴を埋める道具でも土でもない別の何かを与えることができる。
自分が奪ったもの、壊したもの、失くしたもの。
それを全て背負って、それでもなお。
私たちはまだ誰かに何かを与えてもいいらしい。


ジゼル、君の赦しに甘えてもいいのかな。

ジゼルは私に笑った。
カルラとマルチェラも、しょうがないね、と笑っている。
崩れる事のない、美しい笑みで。
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目を開ける。
眠っていたらしい、知らない間に。
空は相変わらず赤い。
タイマーが鳴っていて、ここから出ることを促している。

気づけば何粒もの涙がシーツに落ちてシミを作っていた。
なんとか止めようとしても止まらない。
眦から伝う涙は、出血に似ている。息ができないほど悲しくて、苦しくて、後悔と懺悔にまみれていて、それ以上に愛おしかった。
愛していた。愛している。今でも。これからも。
頑張ってみるよ。
なんとか前を向くよ。向いてはいけないと思っているけれど。
まだ、ちゃんとなれるかもわからないけれど。
だって、ね。あなたたちはきっと知りたがるだろうから。
これからの話を。これからの思い出を。土産話は多い方がいいだろ。
だから少しだけ、君たちを忘れる事を許して欲しい。
アルバムを正しい位置に戻す事を許してほしかった。
傷の血を止める事を、どうか。
すぐにとは、どうしたっていかないだろうけれど。
忘却のヴェールで君たちを包んで、苦痛のない眠りにいつか就かせてやれるように。
永遠を誓えなくてすまない。
まだ、息をしている。
彼女達が私の幸福だった。その彼女達を失って、世界が終わったとすら感じた。
自分の目の前にあるものが不意になくなり、暗闇の中で孤独になる。
行き場のない感情が喉を締め、肺を潰し、心臓をずたずたに切り裂いて、脳が腐って頭蓋の中で役立たずに浮いている。
それでも体は生きている。
感情だけが血管を巡っていた。
情動に任せて過激派亜人団体を潰して回った時、もう何もかもがどうでもよかった。
罪のないものまで噛み殺した。この時点で私は私の家族を襲った連中以下だった。
ケダモノのように自分の不幸に酔って、ただ不幸な人々を家族を理由に殺していた。
復讐を理由に、失った悲しみを暴力で埋めようとしていた。埋まらない事くらい知っていたのに。
復讐は己の為にするのだと言う。やらないよりやるべきだとも言う。
だけど私の行ったあの復讐は、ちいとも私と家族を救ってはくれず、ただ罪と死人だけを増やしていた。
どこかで期待していたんだ。彼らがおとぎ話のように私を殺してくれることを。あるいは、ラデュレのような勇者が正義の元に私を一刀両断してくれることを。
勧善懲悪を期待していた。彼らが行った事に私が憤ったように、私が行った事を誰かが裁いて復讐の正当性を断ち切ってくれるような……。
しかし、現実はどこまでもご都合主義で、私は許され、不幸な彼らは私の足元で潰されたアリも同然であると断じられてしまった。
私はこの世界の格差を知り、彼らが私の家族を殺した動機に正当性の欠片がある事を認めてしまい、私の過ちはどこまでも根深いのだと知った。
正しい事など、明確には存在しない。
善悪とは法の元で簡単に覆るのだと知った。
心はもうとっくに死んでいるのに、誰もかれもが肉体の死を許さなかった。
逃げることを決して許さなかった。
そして許されない事に、ほんの少しだけ救われてしまった。
私は尾を踏まれたあの日に、変質した。
月日が立つにつれて、悲しみは以前より致命的なものではなくなって、慢性的な偏執へと変わった。
傷は膿み腐り、骨が見えていたけれど、悲しみと言う点ではだいぶ麻痺しつつあったんだろう。
自分をだまし、明るい狂人としてビームを撃ち、悪党を蹴散らし、領主として過ごしている内に、私の偏執はねじれていき、自ら作り上げた忙しない日常に埋没しながら悪化させていく。
時にそれを酷い罪悪感として覚える。
なぜ私は生きているのだろう。
家族の死を無駄にしないため。
殺した者たちへの贖罪のため。
正しい事実を少しでも長く覚えているため。
それでも、この世界に私がいてもいいんだろうか。
たまに、そう思う。
現実は天国でも地獄でもない。ただの巨大な土くれの上に、人がいるだけだ。
そこに私の居場所を置いていいのだろうかというためらいだった。
きっと私は長い時間を生きる事になるんだろう。
艱難辛苦に満ち溢れた、異界や異世界に繋がる穴ぼこまみれの、この世界。
自死を選ばず、誰かに殺されたとしても、蘇生という手段があるこの世界では私はきっと満足な死を選ぶ事はままならないのだろう。
マルチェラ。君は今どこにいる?来世に向かって、君の面影を探している。君は今、何かに転生して私の頭の外で穏やかな暮らしを享受しているだろうか。
カルラ。私の可愛い娘。君が生きていたら、あの二人を見てなんて言っただろう。明るい紫の目を輝かせて、妹みたいに可愛がってくれただろうか。君は内気だが母親に似て、まっすぐな子だったから、私と違ってあの子達の手を引いて、対等に抱きしめてあげていたのかもしれないね。
ジゼル。
最近は君を思い出すことが、だんだん減ってきている。
領地に帰り、館へと戻った。
やることが多い。これからうんと忙しくなる。異世界人を受け入れるのにはまずこの世界の事について知ってもらう必要があった。
ラデュレの働きかけで、亜人認定のもらえていない種族の受け入れも行う。異世界の事を知れば、国のお偉いがたも放置はしないだろう。説明と、これからの利益の事について考えなくては。
部屋の扉を開ける。
使用人達はそっと頭を下げて、私が帰ってきたことに安堵していたようだった。帰ってこないと思われていたのかもしれない。心配をかけたとねぎらいをかけて、ついてきた彼らを客室に案内するように頼んだ。
私は自室へと一度戻り、テラリウムブックを開く。少しだけ一人になりたかった。
彼らから離れたかった。
内側。
茜色の世界が広がった。もう失われた光景が広がっている。
私と彼女が育った村。みすぼらしく、質素な、名もない画家の作り上げた絵を元に象られた私の過去の記憶の一部。

「ナルス」

「お父さん」

「義兄さん」
彼女達の声がまだ耳に残ってる。
死の直前のジゼルは手酷く手折られた枯れた花のような腕で、
白を通り越して崩れてしまいそうな肌の色で、
雨に打たれ続けてひび割れた脆いガラス細工のような体で、
少しずつ光が失われていく瞳で。
私に呪いを囁き続けていた。

「ごめんね、もういいよ」
どうして私はいつも間違ってしまうのだろう?
どうして私は誰かを幸せにしてやれないのだろう。
どうして私はこんな風に生まれてきてしまったんだろう。
どうして私は生きて行かないといけないんだろう。
愛すれば愛するほどあなたたちを傷つけ、誠実と理想から遠ざかっていく。
願えば願うほどに何もかもを置き去りに、私の夢見る平穏がずたずたになっていく。
正しいと選択した道は、理不尽と無力感が敷き詰められている。
覚悟をもって前を向き歩き出しても、もっと大きな苦しみを抱えた誰かを、私は救えやしないんだろう。
ジゼル。
カルラ。マルチェラ。
過去にしかない愛する人たちの微笑みは、無垢な天使のそれよりもはるかに美しい。
だけれどその美しい笑みは、やがてゆっくりと惨劇に濁り、赤黒くよごれていく。美化のヴェールがはがれて、その陰惨さがあらわになる。

「前を向いて」
あなたは、いつも気持ちをごまかす時、目を閉じて笑う。
脳裏に浮かぶあなたは、崩れながらもその顔をしていた。
でもはたして、こんな顔だっただろうか。
髪の色はもっと鮮やかではなかったか。目の色はなんだった。唇は。耳の長さは。頬の色は。
ジゼルの微笑も、カルラの悲しい瞳も、マルチェラの泣き顔も、もうとっくに私が勝手に作り出した嘘に塗りつぶされているのかもしれない。
巣のようなベッドに沈み、なつかしさを感じる肌触りに溺れる。
目を閉じて昔の事を思い返した。ごわごわとしていて、色あせた幸福の思い出。
裏山の獣道を辿って、木の実を摘んで、子供のジゼルと一緒に探検をしていく。二人で見つけた小さな木のうろに手を突っ込んで、ジゼルはナルシテに向かって笑った。何かを言っていたが、何を言っていたか思い出せない。

「ジゼル…」
赤らんだ空の下、田園風景の下で同じ色のスカートを翻したジゼルは笑っていたようだった。

「今年は、ここに住む人が増えるよ。フィアールカと、メリルと言うんだ。どちらも色の白い子でね。いい子なんだ」
マルチェラが暖炉の前で編み物をしていた。毛糸玉が膝の上から転がって、もつれながら転がっていくのに慌てて立ち上がり、他の毛糸玉も落として思わず笑い声をあげていた。

「マルチェラ。私も老けたよ。あなたにはいつも助けられていましたね……」
家の庭に生えた大きなリンゴの木の下で、小さな実を齧ってカルラが酸っぱさに首を竦めている。輝かしい紫の瞳をほころばせて、照れくさそうに濡れた唇を袖で拭いていた。

「カルラ、お前がいない時間が、お前の年齢のもう1/2が過ぎ去ってしまった」
記憶の中で三人の女は互いを抱きしめ合って、黙って男を見ていた。まつ毛を伏せて、うっすらとほほ笑んで、肌と肌を寄せ合い、寂し気にしている。
遠い。

「私はいつも無力だ。図体ばかりが大きい、果たして私はちゃんとできているんだろうか。足元の誰かを踏みつけてはいないだろうか……」
呆れたと言わんばかりの顔で、真ん中のジゼルがナルシテを見る。
穏やかな風。夕陽が彼女たちの影を長く伸ばしている。

「……フィアールカが、君たちの事を知りたいと言ってくれたんだ。明日の約束をしようと言われて、色々と考えている。絵本の読み聞かせとか、はじめてみようかな」
美しい黄昏時。
顔はまだ崩れない。この時たしかに私の頭の中に天国はあった。
愛しい家族達はその中心で、穏やかにほほ笑んでいる。私はその中にはいない。

「メリルが、私に穏やかに暮らしてほしいと願ってくれているんだ。同じ曲が好きだと言ってくれてね、歌もうまい。今度どこかでまた歌ってほしいと思っているよ、イベントにも引っ張るつもりだ」
郷愁の匂いがする。わずかに湿り気のある森の風だった。
ほのかに夕食の匂いの混ざった懐かしい匂い。あの村に漂っていた、穏やかな平和の匂いの風。ジゼル、あなたがカルラもつれて見せてあげたいといった、村の夕陽と風。

「一緒に来てくれて、嬉しかった。些細な事かもしれないが」
私は貴種だ。私は竜ならず、しかして人でもない。
役割がある。求められている。
病んで間違えばかりの私にも、まだなにか与えられるものがある。
そうおもうよ。
失ったものはどう足掻いても取り戻せない。
開いた穴を埋めるものはない。
それでも人は、穴を埋める道具でも土でもない別の何かを与えることができる。
自分が奪ったもの、壊したもの、失くしたもの。
それを全て背負って、それでもなお。
私たちはまだ誰かに何かを与えてもいいらしい。

「ジゼル」

「もういいよ」
ジゼル、君の赦しに甘えてもいいのかな。

「ジゼル……なにか、言ってくれ………カルラ。マルチェラ。私は…あなたを……あなたたちを、置いて行こうとしているんだ」
ジゼルは私に笑った。
カルラとマルチェラも、しょうがないね、と笑っている。
崩れる事のない、美しい笑みで。
「ばーか。幸せになってよ、いいにきまってるだろ」
目を開ける。
眠っていたらしい、知らない間に。
空は相変わらず赤い。
タイマーが鳴っていて、ここから出ることを促している。

「……」
気づけば何粒もの涙がシーツに落ちてシミを作っていた。
なんとか止めようとしても止まらない。
眦から伝う涙は、出血に似ている。息ができないほど悲しくて、苦しくて、後悔と懺悔にまみれていて、それ以上に愛おしかった。
愛していた。愛している。今でも。これからも。
頑張ってみるよ。
なんとか前を向くよ。向いてはいけないと思っているけれど。
まだ、ちゃんとなれるかもわからないけれど。
だって、ね。あなたたちはきっと知りたがるだろうから。
これからの話を。これからの思い出を。土産話は多い方がいいだろ。
だから少しだけ、君たちを忘れる事を許して欲しい。
アルバムを正しい位置に戻す事を許してほしかった。
傷の血を止める事を、どうか。
すぐにとは、どうしたっていかないだろうけれど。
忘却のヴェールで君たちを包んで、苦痛のない眠りにいつか就かせてやれるように。
永遠を誓えなくてすまない。
まだ、息をしている。