Eno.218 八〇七番

■ 記録

おさかなさんが歌っている。
ひんやりとした手に撫でられながら、僕は遠い日のことを思い出していた。

『――さんは、いい子だね』
頭を撫でられる。抱きしめられる。
遠い日の、やわらかくあたたかな手の感触。
『でも、もっと、わがままを言っていいんだよ』
困らせたくなかった。悲しませたくなかった。
大切な人たちだったから。
けれど、僕の記憶の限り、大切な人たちは、いつも、少しだけ困ったような顔をしていた。

『それはそうだろう』
と、後に、あのひとが言った。
既にその時には僕の頭を撫でて抱きしめてくれた人たちはいなくなっていて、それは過去の話だった、けれど。
『お前は、もっと、困らせてよかったんだ』
そう言われたところで、結局納得できなかったのは覚えている。
僕には人の思うことがよくわからない。
ただ、大切な人たちの前ではより善いものでありたかった。
それだけ、だったというのに。
『本当に馬鹿だな、お前は』
そう言って、あのひとは僕のことを、まるで小さな子供にするように撫でた。
それだって、もう、遠い記憶。

おさかなさんの歌が聞こえる。
僕の知らない歌。
凪いだ海のように、優しくて、穏やかで。
なのに、胸を締め付けられる、ような。
もしかすると、こういうときに、ひとは、「泣きたい気持ち」と言うのだろうか。
僕にはわからない。
僕は泣くということができない。
大切な人たちが死んでしまったときも、僕にとっての唯一だったあのひとが、僕のせいで消えてしまったときでさえ。
ただ、軋んで痛みを訴えるような感覚だけを、頭のどこかで感じながら、さらに深い眠りに落ちてゆく。