Eno.145 留守みんと

■ 終わる夏とレモネード

 選手紹介のアナウンスがプール会場に響く。

 留守みんと。

 いわゆるキラキラネームという奴だ。
 適当な母と父が、好きだからという理由で付けた名前。
 夏に生まれた女の子、透き通った綺麗な名前だと言っていた。
 随分と適当な事をしてくれたと思う。
 このままだと、80歳になってもみんとお婆ちゃんなのだ。
 そういうお菓子の宣伝キャラクターみたいになってしまう。

 改名したいと何度も調べたが、年齢的に難しかった。
 まるで女児向けアニメの魔法少女なんかが名乗るような、
 この名前を呼ばれるこの瞬間は、水泳大会の中では珍しく嫌いな瞬間だった。

 でも、今はそれが――ひどく待ち望んだ物に思える。
 帰ってきたんだ、飛び込み台の上に。
 鼓動の音、呼吸の音、普段聞こえない様な音が特別大きく聞こえる。
 それが少しずつ、深呼吸と共に収まっていく。

 呼ばれた選手たちが歩を進め、飛び込み台に上がっていく。
 そして、飛び込み準備の姿勢へと移っていく。

 全員が並び、準備を終えた時。
 すっと歓声が止み、会場は静寂に包まれる。

 ――もうすぐ、スタートのブザーが鳴る。

 ゼロコンマ数秒を争う世界。
 緊張の一瞬、出遅れたら最後、大きなハンデを抱える事になる。
 私達は水の中で生き、時の中でも生きている。

 練習用プールでウォームアップしていた選手達の水かき音も、
 バタ足の音も、この瞬間だけは何も聞こえなくなる。
 単に集中しているだけなのかも知れない。
 今、私は私だけの時の中に居る。

 ――ピン。

 短い電子音が響く。それがスタートの合図、それこそが夏の幕開け。

 競い合うのは隣のレーンに並んでいる他校の生徒達や、
 もう既に泳ぎきった選手たちの記録。
 そして何より、タイムと自分自身。
 1秒でも速く前へ、少しでも遠く先へ。

 私は、空を切り身体を水の中へと滑らせた。

 どっと膨らむ会場の歓声も、もう何も聞こえない。
 私と水、そして時間。それだけが視界と心にあるものだ。



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『留守さん、治ってるね。
 良く練習我慢したね、今度は無茶したら絶対に駄目だよ』

 島から藍浜に戻った後、お医者さんは言ってくれた。
 コーチも先生も結果を聞いて、ひとまず良かったなと言ってくれた。

 とはいえ、リレー種目には自分の居場所は無い。
 私が速い方とは言え、藍浜学園は強豪校でありスポーツのエリート校。
 もし私を補欠枠に入れたとして、残りの選手が故障しないとも限らない。
 最悪の最悪を考え、オーダーは決定される。
 それには私も納得している。

 ついこの前までは、珍しくムキになってしまう自分も居たけれど。
 その結果海で泳いで練習して、遭難しただなんて誰も信じちゃくれないだろう。
 
 ――去年の冬の事だ、私は軽い怪我をした。

 いわゆるオーバーワークという奴で、練習のし過ぎが原因だ。
 部活で散々泳いだ後、休養日として設けられた日まで馬鹿みたいに泳いでいた。
 しっかりとしたコーチやトレーナーさんが、
 私達の為に練習メニューを組んでくれたと言うのに。

 泳ぎたりなかった、満足できなかった。
 選手として水泳をするという事は、自分を管理する事でもある。
 けれども、私にはそれが出来ていなかった。

 治りかければ、素人判断でこっそりと泳ぎ、また症状を悪化させる。
 そんな注意を受けては、今度は気を病み体調を崩した。
 水泳は怪我の少ないスポーツだと言われるけれど、怪我と完全に無縁な訳では無い。
 それは散々コーチからも言われたし、部室の張り紙にも書かれている。
 万全なストレッチ、体調管理、十分な休養。これらは本当に必要な事だった。

 でも、私はそれを守る事が出来なかった。

 結果、2年目の夏まで、私は大会で泳ぐ許可が降りなかった。
 記録を維持できなければ、強化選手として特別な練習に参加する事も無い。
 タイムによってランク分けされ、それぞれの練習を行うシビアな世界。
 そんな場所に、そもそも泳ぐ事さえ許されぬ者が立ち入る事は出来ない。

 私は暫く、水泳部のマネージャーもどきとして練習を手伝った。
 皆のタオルや練習着の手入れ、練習中の声かけやタイム計測要員、
 別に泳げるようになる訳では無いのに、部の所属者として与えられる役目。
 速くなっていく皆を見るのは良い、ただ何より、泳げない事が辛かった。
 生殺しの様な日々の中、その限界が来る日まで私は耐えた。耐え続けたのだ。

 それは、もう泳いで良いかを判断する診察の1週間ほど前の事。
 私はつい、眺めていた海に飛び込んでしまった。

 そして私は、あの彼方の島へと漂着した。



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 水の中は冷たい、程よく身体に馴染んで、それが温かいと思えてくる。
 身体を動かす度に抵抗があって、それを蹴飛ばす度に前に進む。
 掻き分ければ道を開けてくれ、油断すれば口の中に入ってくる。
 味方なのか、敵なのか、プールの中の水は良く分からない。

 でも、1つだけ分かる事がある。

 此処が私の居場所なんだ。
 何処でも良い、どのプールでも良い。
 私はこの水の中を存分に泳ぎ、イルカの様に駆け抜ける。
 その瞬間の為に、生きていると言って良い。

『お前には来年がある、その先にはもっと、
 お前の人生において大事な舞台が待ち構えている筈だ』

 コーチは言う。

『悔しいけど、アンタ凄いよ。まだ速くなると思う。
 だから、無茶なんて絶対しちゃ駄目』

 キャプテンは言う。

 母が言った、したい事をすれば良いの先の世界。
 したい事のために、何をすべきか知る世界。

 私は整えた。息を、心を、体調を、須らく全てを。
 粗末な食事を辞めたし、母のご飯ごと朝晩ご飯を作る様になった。

『あんた良い嫁になれるよ、私と違って』

 味噌汁を啜り、母は困った様な顔で笑った。
 前より食卓で、2人で話す事が増えてきたある日の夜。

『違うよ、誰かの為じゃない。私の為だから』

 瞳を閉じて私は言った。少しだけ頬が熱い、嘘とホントが混じった言葉。
 その言葉に嬉しそうに母は微笑む。

『やっぱり私の娘だわ、そういうトコ』

 そしてまた、母は言うのだ。
 したい様にしなさい、後悔の無い様に――と。

 言われなくても、私はそうする。
 息継ぎをして、うんと勢いよく水を蹴飛ばす。
 前に進めば進むほど、私は澄んだ私になっていく気がする。

 背中に背負っていた藍浜の文字、
 託されたコーチやトレーナー達の期待、
 相変わらず適当な母の言葉と、
 仲間達からの応援。

 熱い、背中が燃える様に熱い。
 肩甲骨が良く動く、全身が思い通りに、いや思った以上に滑らかに動く。
 私に必要なのは休む事、自分をセーブして整えていく事。
 強すぎる我を乗りこなした時、私は無敵の水泳馬鹿になれる。
 その事実が確かな手応えとして感じられる。

 だから、私は一目散に泳いだ。
 青の中を、歓声の中を、かつてない速さで。

 そして、ゴールの黄色い壁に触れる。
 もっと泳ぎたかった。でも、これで良いんだ。

 見返した電光掲示板の数字。
 それは、この種目での私のベストより、さらに1秒台速かった。

 ――ただ、同時に私は世界の広さを知る事になる。

 隣のレーンには、もう別な少女が着いていた。
 キリッとした目がどことなく、イワトビペンギンみたいな少女だった。

 彼女のタイムと、私のタイム。それはコンマ数秒台まで同じだった。
 珍しいが、あり得ない事ではない。
 そして、それだけではなく、もっと速い選手も居た。

『水代美幸、遠泳のみならず競泳でも堂々1着』

 結果、私は表彰台でいう所の三番目だった。

 冗談の様に速かったその選手は、別な種目から競泳に移ってきた選手だと言う。
 その後数日、新聞やニュースで目にするその名前。
 なんでもオリンピック選手の娘で、いわゆるサラブレッドだ。

 どこか聞いた事がある響きが合体した様な名前に、少しだけ不思議な気分になる。
 ただ、その名前を見る度に、私はあの島での出来事を思い出す。
 まるで、海の彼方から私においでと言っている様に。

 彼女を追い越せたら、また新しい景色が見えて来るんだろうか。
 ある意味、彼方の島から吹きすさぶ追い風の様な存在、
 此処までおいでと焦らす彼女の記録。

 私は今更になって、初めて"誰かと競う"という競泳の楽しさを知った。
 中等部最後の夏、私は今更ながらに『勝ちたい』と思う様になった。

 昼までの練習日、その帰り道に見上げた高い高い晩夏の空。
 白い月と太陽が並んで私を見下ろしていた。

 私はもう、タイムを急いでも、生き急いだりなんかしない。
 コンビニのレモネードの酸っぱさに驚かされながらも、
 私はカバンからスマートフォンを取り出して、通話をかける。

「あ、先輩。次の日曜日、空いてるっスか?
 母さんから遊園地のペアチケ貰ったんスけど――」

 私はこの夏、水棲人類から両生類に進化した。




 ◆Tomemori Memory◆
     FIN

 最後までお付き合い頂き、ありがとうございましたっス!!