Eno.188 呼家 礼

■ 呼家礼のエピローグ

早朝、船が着いた。

ここから少し道なりに歩けば駅がある。
ほぼ利用したことのない路線だが、乗り換えて地下鉄に出られれば
やがて慣れ親しんだ繁華街と、そこから少し行った場所にある、
昭和レトロなスナック『れんげ』に帰り着くことができるだろう。

布材を風呂敷代わりにして包んだ、軽い手荷物を手渡される。
仲間の一人の連絡先は記憶している。一部の仲間とは近いうちに会う約束もした。
そうして、一週間を共に過ごした島の友人たちに別れの挨拶をして、
呼家礼は都内某所の港に降り立った。

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船を見送って、振り返る。

ボラードの横にずぶ濡れのスーツを着た男が座り込んでいる。
港らしい洒落たデザインの街灯の下で、女性がベビーカーの前に屈んで、中に話し掛けている。
冬用のジャージで早朝の日課らしいランニングをしている人。
駅前では、帽子に着物を着た男性が革張りの椅子に掛けて葉巻を燻らせている。
ホームの隅には何人かがいて、じっと横になっている。
始発電車は混んでいたが、席にはたくさん空きがあった。
地下鉄に乗り換えると、目に入るのも馴染みのある人々になる。
朝から車内は相変わらず混んでいるが、いつもの車両のいつもの席を見つければ、そこは比較的人が少なく、多少は落ち着けるのだ。

狭くて硬い座席で、傍若無人に足を組む。
それから一度大きく息を吐いた。都内は本当に人が多い。

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『れんげ』から徒歩6分の場所にあるアパートの部屋に帰ってきて、鍵を持っていないことに気付いた。
ここの家主が夜勤を終えて戻ってくるまで、あと50分ほど待つしかない。

ちょうど目の前の定食屋の裏手から、顔見知りの男子高校生が部活の朝練に出掛けていく。脇目も振らずに走っていく白い半袖シャツをなんとなく眺めて、そこで初めて、自分の着ている服の生地がそこそこ傷んでいることに気付いた。新品だった筈のアロハシャツとハーフパンツは、この一週間で何度も海水と真水に洗われ、何箇所かは引っ掛けて、僅かにほつれている。
そういえば、いつものコンビニの前を通っても、煙草も酒も欲しいと思わなかった。
今は文字通りの一文無しなので、どうせ何も買えないのだが……。

癖でなんとなくポケットを漁ってみると、貝殻が出てきた。
ピンク色のかわいらしい二枚貝に思わず吹き出す。
尻ポケットからは写真。紙が分厚く、面積は小さい。
砂浜に打ちあげられていた古いポラロイドカメラが、あの島でどうにか現像してくれた1枚。



この写真をどこで、どういういきさつで、どんなやり取りをして撮ったのか。
空気の匂い、蒸し暑さ、つらい日差し、この後に飲んだ真水の味まですべて覚えているし、きっと忘れることもない。
こうしてはっきりと現像された紙の手触りも感じている。

それなのに、あの島は夢だったのかもしれない、という感覚が、少し現実を歩いただけで早くも生じてきてしまっていた。
アパートの部屋に入れるようになるまで、恐らくはあと45分ほど。
その間に、この一週間のことを思い返しておこう。
後からいつでも振り返れるように。

静謐で穏やかな、ずっと求めていた世界の一部に、確かに自分は触れていたのだ。