Eno.145 留守みんと

■ 合う水、合わない水、答えない風

 ふと、横になって物思う。
 大の字になって見上げる空は、酷く遠く高い物に思えた。
 くるくると頭上を飛び回る鳥は、私が死ぬのを待っているのだろうか。

 密かに切り詰めた食料、限界まで我慢した水分、
 生命の危険を感じない程度に無茶しながら、
 コリコリとした海藻を食んで飢えを誤魔化している。

 水でふやける粘性と、自然と出てくる唾液。
 思ったよりは我慢できる。空腹感との付き合い方を覚え始めた。
 貰った魚なんかは温存して、いざという時に食べようと。
 ただ、やはり健康を削っていると、少し生活に支障が出る。

「……寝付けない、っスね」

 小さくぼやく。
 見上げた空の下、砂浜と一体になって青空に溶けようとする。
 いつ何処からともなく猛禽が私を啄んでいかんとも限らない、
 潮が満ちて、浜ごと水に呑まれるかも分からない。
 そんな状況下、自然と意識してなかった不安が湧き出てくる。

 ある意味、サバイバルするなら思考的には万全だ。
 体力的には、かなり心もとないのだが。
 でも、それで皆のポテンシャルを引き出せるなら、きっと得だ。
 皆と繋がって、皆を繋ぎ止めている限り、私も生きていられる。
 そんな、コミュニティに所属する安心感。

 出場枠争いの激しい部活では味わえなかった、
 蹴落とし合いではなく支え合いの共同体からの恩恵。
 だから、私は大丈夫なんだと言い聞かせる。自分の心に。

「……ふぅ……はぁ……」

 ざぱーん、みゃあみゃあ、きゃおきゃお。
 岩場の岸壁に打ち寄せる白波は打ち寄せては砕け、飛沫をあげている。
 浜辺の波にさらわれ、軽いポリゴミがからからと転がっていく。

「まさか……っスねえ……」

 突然囁かれた言葉。
 恋とか愛とか、男とか女とか、自分には無縁なものだった。
 そんな自分の身に、突然訪れた衝撃的な告白。
 むしろ眠れないのは、このせいじゃないだろうかと思う。

 過去と今で一杯一杯だった私に、突如降りかかる未来の問題。
 そしてそれは、今の問題でもある。

「はぁ……へぇ、んぁー……」

 ざぷーん、思考が波の音に紛れていく。
 空腹から来る眠気が、少しずつ物思いに耽る思考を溶かす。
 
『将来いい女になるぜ』

 たまたま言われた言葉で、自分という物を意識する。
 そういえば、自分も女なんスよねぇ、なんて
 流石にそこまでのド天然では無いけれど、
 でも、女だから何なのさ程度には思っていた。

 正直、胸もアレコレも、泳ぎの邪魔だと思う事はある。
 タイムだけの人間ではないので、流石に切ろうとは思わないが。

 どちらにせよ、痛いとか水着が息苦しいとか、
 そういうのは無縁になれたら良いなと思う事はある。

 そんな、意識しても身体の都合だけだった。
 母みたいになる気もしないし、男の子とくっつく事に魅力も感じない。
 水泳部の男子と、水泳の事で話すのは楽しいけれども、
 別に水泳以外の事まで共有したいとも特に思わない。
 デートとか、夜通しのPINE通話とか、絶対面倒というか、
 私のしたい事をさせてくれないなら、別に良いかなとは思う。

 男とか、女だとか、確かにどうでも良いと思っていた。
 モノレールで手を出してくる痴漢だとか、
 そういうのは滅んでくれた方が確かに助かるとは思う。
 着飾っていない地味な子だから、狙われるのかなとかも思うけど、
 着飾ったら着飾ったで、今度は同級生とかが面倒くさい。

『お願い! 一回だけ! 試しに別な髪型にしない?』

 小学六年の夏の事だった。
 行きつけの美容院の先生があんまりに頼んでくるから、
 試しにお任せにした事があった。

 確かに可愛い髪型という奴なのだろう。
 黒い髪を程よく梳いて、両目が見える様にスッキリ切って。
 どことなく、母に似てさっぱりとしたパッツン髪。
 確かに自分が自分じゃないみたいで、びっくりした覚えがある。
 ちょっと自分が無個性になった様な気がしつつも、
 その日の夜は母も上機嫌で、『明日の学校これ来て行きな』と
 わざわざ一揃い服を指定してきた。
 別にどうでも良かったので着ていったら、世界まで変わっていた。

『誰、あの子……?』

『ああ、え……留守!』

『嘘だろ、あんなだっけ……?』

 どっと人だかりが出来た。
 普段話していたクラスメイトを押しのけて、
 おしゃれ大好きで騒がしい子が話しかけてくる。

『え、ともリンかわい~!! ねえね、髪どうしたの!
 超似合ってる! 美容院教えて!』

 それから暫く、何をしても視線を感じる日々が続いた。
 一度、勝手に恋愛騒ぎに巻き込まれて、
 クラスメイトとの関係が悪くなりそうな事もあったし、
 掃除の前に机を運ぶ時も率先して男子が手伝ってくれる様になった。
 今までそんな事、一度も無かったのに。

 面倒だった。男の子から向けられる好意も、
 女の子から向けられる嫉妬も、町中で浴びる視線も。
 確かにお得なのであろう事もあったとは思う。
 ただ、私には面倒の方が多く感じた。

『ねえ、あの髪型には戻さないの?』

 数カ月後、すっかり髪型を元通りにして過ごす私に、
 ふと、前から割と仲良しだったクラスメイトが訪ねてきた。
 以前、騒がしい子に割って入られた、大人しくて物腰の柔らかい子。
 程よく不干渉なその子との距離感が、私は居心地良く思っていた。

 貴方もあっちの方が良い? そんな事を問いかける。

『ううん、どっちでも良いと思う。
 でもちょっとだけ、遠くに行っちゃった気がして寂しかった』

 淡い窓辺の光の中、ほっこりとその子は笑う。
 何それ、なんてつい笑ってしまった気がする。
 でも、たしかに近しい感覚は感じていた。
 淡水魚なのに海水に入れられた魚って、あんな気分なのかなと思う。
 文字通りの水が合わない感覚。

 きっと、私はあの世界では生きていけないのだろうと悟った。
 いや、より語弊無く言えば、私の望む理想では無かった。
 確かに美しいマーメイドや水の妖精に憧れない事も無い、
 競泳以外の種目なんかも泳ぎにはある訳だし、
 速さじゃない美しさや演技で勝負する世界だって存在する。

 けれど、泳ぎに専念したい私を邪魔する物が多いなら、
 私はフォーム以外の美しさや派手さなんて微塵も要らないと思う。
 水族館の熱帯魚やミノカサゴの様な見目麗しいスターではなく、
 私は大海を泳ぐ雑魚のままでいいのだと、そう切に思う。

 だから、私は言うのだ。

『いつも通りでお願いします』

 そう、幾度となく繰り返したその言葉を。
 でも、今度はどうしたものだろう。

 いつも通りなのに、いつも通りじゃなくなってしまった。
 困惑だけが、どこまでも増えていく。
 浜辺に漂着するアレコレの様に、私の心が散らかって行く。

「困ったっスねえ……」

 ドキドキはしている、これが好かれた喜びなのか、
 YESのサインなのか、環境の変化への恐怖心なのか、
 その全部なのか、一部なのか、私にはまだ分からない。

「はふ……」

 答えは無い、景色の中にも、心の中にも。
 結局眠れないまま、足先を塩水がくすぐりだすくらい、
 長い長い時間が経ってしまっていた。

 次から、どう接すれば良いんだろう。
 私は、どんな答えを用意すれば良いんだろう。

 今日の風は、やけに生暖かで中途半端な物に思えた。