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犬笹巻綾乃は普通の小学生だ。
頭がいいわけでもなければ運動もそんなに得意ではない。
それでも登校中に話す子はいるし、休み時間や放課後に一緒に遊ぶ友達もいる。
少女が住んでいる町は海に面している。
砂浜もあり、夏になれば海水浴場として開放される。
夏休みの子供といえば水着が乾くのを待たずに毎日のように泳ぎにいきそうなものだが、少女はこの二年ほど海に近づいていない。
かつては父に浮き輪を引いて泳いでもらうのが好きだった。
体力をそこそこに使うだろうに、かき分けられて上がる飛沫をうけて楽しそうに笑う少女に、父も笑っていた。
もう引いてくれる人はいない。
浮き輪につかまってみても、試しに泳いでみても、楽しいどころか虚しさを感じる。
だから、少女にとって海はあまり関係ないものになった。
『豆腐とマヨネーズ買ってきて!』
『好きなもの買っていいから』
『その分返すからレシートは捨てないでね』
スイミングスクールのロビーで開いた携帯には母親からのメッセージが来ていた。
海は避けているが、泳ぐこと自体は嫌いじゃない。
四角くて塩素のにおいで満ちた四角いプールで泳ぐことはむしろ好きだった。
ほかの子供たちが海で遊ぶものだから、夏の体育は大体レベルが高い。
通知表の基準が相対評価から絶対評価になってからは25m泳げたらそれで十分な評価を得られるが周りより遅いというのは落ち着かなかった。
だから少女は母に頼み込んで通わせてもらっている。
それを考えるとこのくらいのお使いはなんともないが放課後の習い事を終えた子供に頼むのはどうかとは思わされたが。
スーパーで頼まれたものと大きなペットボトルのジュースを買った。
宿題の前後や帰宅時の楽しみ程度に飲むなら許されるだろう。
そんなことを考えながら自動ドアを越えると、夏の近い空は濃い赤に染まっていた。
まだ陽が落ちていないことに安心するが、やがて真っ暗になるのもそう遠くない。
少し考えて、普段は使わない土手を通って帰ることにした。
波の音が聞こえる。
砂浜との境で上がる音だけど、その波は遠くとおく深い海の一部で、境目に立つと引く力の強さに驚いたものだ。
そんな海の前では、自分たちみたいなものは本当にちいさくて、無力。
『思い出さない』ように、海の広大さについて考えていた少女の耳に、人の声が届く。
「――!」
「かっちゃん、がんばって!」
「誰かいませんかー!」
立ち止まって砂浜を見ると、波際で手をメガホンのようにしている男子たちと、少し離れたところで手をばたつかせている子が一人。
身長的に上級生の男子。
毎年のように海の危険とおぼれた時にどうすればいいかの話が体育館であるのに。
こんな時間に遊ぶような人たちだ。
正直関わりたくない。
それでも、見てしまった。
これでニュースになったり明日の学校で全校集会なんかがあればもっといやな気持ちになることはわかる。
ジュースを取り出したスーパーの袋を置いて、ぐるぐる回して早く空にしようとする。
ビニール袋で持っていこうとすれば袋に水が溜まって泳ぎにくくなる。
それならスイミングスクールのカバンのほうが持ち手も長くて濡れることも想定されている。
こういう時かけるのは119だっけ、110だっけ。
ミルクティーが流れ切ったボトルに蓋をして鞄につっこみ、砂浜に降りる。
「電話は?」
「え?いや、まd――」
既にそういう対応ができるような人たちならこんなことにならないか。
上級生と言っても小学生。いつも平気だった遊びで友達が流されて冷静でいられるほうがおかしいのだが。
発信ボタンを押したスマホを押し付けて海に分け入る。
さぶ、ざぶ
段々服が水を吸って重くなる。
着衣水泳は5年生でするけど、こんな風になるんだ。
ペットボトルを渡した後にプールバックを浮きにできるかな。
浮いていればすぐに消防隊が来てくれるから、それまで持てばいい。
息継ぎのために顔を出すとき以外は水中でできるだけ抵抗のないように水を蹴る。
プールバックの浮きにやっぱりちょっと引っ張られるけれど、このくらいなら大丈夫。
水中で見える体を目指して進んでいた
が
その姿が消える。
潮に沁みる目を凝らしても、船影や物語のような人間を引っ張っていくような影もない。
消えたのが自分の方だと知らされるのは、もう少し後。