■ 濡れたノート
槌屋ヒナタの顔をしばらく見ていない。
狭い教室の中で名前を呼ばれて振り返ったら、
呼ばれていたのはもう一人の『ヒナタ』だった。
そんなことはこれまでにうんざりするほど何度もあって、振り返るのをやめた。
いま、この島で誰かが『ヒナタ』と呼びかけた時、それは殆ど俺を呼ぶ言葉だ。
その名前で呼ばれるたびに、振り返らないといけないことと、槌屋のことを思い出す。
もし、仮に船がやってきて。
船に乗らない者がいたなら、その名前は教室で口にしてはならない言葉になる。
これは、もしもの話。
『槌屋ヒナタ』がそうなったら、俺の下の名前を呼ぶことを躊躇う奴も出るだろう。
あるいは、誰かが俺を『ヒナタ』と呼ぶたびに、
その名を近くで聞いたまた別の誰かが、何も言わずに微妙な顔をするのだろう。
だから、もう一人の『ヒナタ』がいない教室に帰って、
『ヒナタ』の名で席に座っているだけで肩身の狭い思いをするぐらいなら、
2-1の『ヒナタ』は、どちらも死人の名前にしてしまったほうがいいかもしれない。
そんな話を、たった一人だけにした。
もちろん、この話は実現しない。
実現しないから、そしたら一生言う機会がないから、言った。
この島に来てからずっと、『ヒナタ』という名でいることへの罪悪感がつきまとって離れない。
もう一人の『ヒナタ』がいないと生き延びることすら後ろめたい。
そんなことは、ずっと誰にも言えないままだ。