Eno.571 みちる

ひはたけり、はいがながれ、




『サイトウさんって、庶民の子なのでしょう?』
『いえ、確か…卑しい族の出だとか?』


くすくす、くすくす


 清潔な教室。綺麗な制服。不潔な嗤い声。
私には、それが苦痛だとは思わなかった。彼女らのように、生まれながらにして大企業の出というわけではないが、ここにいることが恥ずかしいと感じてはいない。十分な勉強が出来る、教養が得られる、それが、きっと将来に繋がり、母を助けることが出来る…それならば、例え水をかけられようと、笑われても、何も感じなかった。


『御機嫌よう。』


 そう振る舞っている内に孤立するのは当たり前で、同世代の友人なんて今まで1人も出来なかった。放課後、真っ直ぐ自宅に帰っても独りでいることが多く、それがなんとなく嫌で、チェーン店のカフェでよく時間を潰していたっけ。
 …今思えば、"繋がり"を持たなかった私は、とても弱く、愚かだったと思う。


『知ってる?綺麗な花々が咲く花壇に、1つだけ雑草が生えてるのよ。
 …それって、とてもとても、不愉快だわ。』


 中学3年生、冬の季節。
 私は、同級生の2人によってカラオケボックスへと拉致された。"仲直りがしたい"――そんな甘言に引っ掛かってのこのことやってきた私の前に、明らかに背が高い男が2人。一目見て、程度の低い男だと分かった。
 出入り口のドアに女が2人、抵抗する私の上に男が2人。出られる筈がなく、その内1人が愉しそうに囁いた。


『オンナノコの壊し方、知ってる?簡単さ、踏み付けて穢してしまえばいい。』


 終わった、何が、というよりも、直感で。だから、もう諦めようと眼を閉じた……その時、だった。


『な、なんですか、貴方達は!?』
『いや、引っ張らないでぇ!』
『お、おいリカ!こいつら誰、ぐぇっ』


 喧騒。少しだけ場の空気が乱れる。悪いことに悪いことが重なっている気がしたが…


『……大丈夫?"みちる"ちゃん。』


 両頬に、誰かの髪の毛が触れる。恐る恐る目を開けば、深い緑色の、長い髪が枝垂れていると分かる。声の主の目は、暗くとも双眸がそれぞれ違う色をしているのも分かった。けれど、私の知り合いではない。全く知らない、スーツを着た、優しげな中年の男性。


『それじゃあ、いこっか。』


 その人は穏やかな笑みを浮かべ、服の乱れた私を整えてから手を引っ張ってカラオケボックスから私を連れ出していく。…あとの4人は、明らかに普通の人ではない怖そうな大人に捕まりながら、連行されていく。
 どこに行くの、貴方は誰なの、どうして私を助けたの。聞きたい事はたくさんあったのに、酷く喉が渇いて、聞けなかったのだった。


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(中略)


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 その後、九条直彦くじょうなおひこさんと別れた私は無事に自宅へと帰り着いた。時刻も時刻であったために、既に帰宅していた母に詰められると、私は上手く、あることだけは避けて都合の良い理由を話す。


『私、家に帰れなかったの。手持ちのお金がなくなって、帰りの電車代がなくなって…スマホの電池も切れちゃったから、どうしようって悩んでて…それで、ね?九条…さんと、偶然出会って、ここまで送って来て貰ったの。九条さんって、確かお母さんの…』


 母の顔が、見た事無い色を浮かべ、固まっていた。


『…みちる、その人たちと、会ったのね?本当ね?それ以上は、何もなかった?本当に何もなかったのよね?』


 両肩を軽く掴み問い詰める母は異様に怖くて、思わず本当のことを話しそうになったけれど…やめた。ただ、その質問には黙って、頷く。


『……そう、分かったわ…後で、お母さんがあの人達にお金を返すから…みちるはもう、関わってはダメよ。いいわね?』


 よほど、母は九条さんと私を接触させたくないらしい。私は、うん、と答え、ようやく部屋へと戻っていった。


 …でも、1つ、嘘を吐いた。
 直彦さんは、知っている。私が【いじめられていることを母に隠している】ことを。そして、【そのせいで1人立ちが出来なくなれば、こちらが困る】と教えてくれた。
 だから、私は直彦さんから渡された連絡先を、消さずにいた。あの倉庫で見た光景が酷く脳を揺さぶって、私の何かを変えようとしているから。なかったことにはもう、出来ないから。


(忘れよう、今は。…今だけ、は。)


 そうして、私はベッドに横になり、眠りへとついたのであった。


 …翌日から、あの同級生を筆頭としたいじめ行為はなくなった。


 あの女子生徒が、行方不明になっているらしい。
 …私には、"もう"関係無いことだ。