Eno.311 防寒着

波間にて

「ぜんぜん沈まないんだけど」


 考えてみれば当然のことでした。ある程度の自重があってようやく水とは沈むものであり、中身のないただの服だけがあったところで沈むわけがないのです。
 平べったくなった布きれが、海上にぷかぷかと浮いていました。その胸元には小さな箱を未練がましく抱えていましたが、もはや今になってからできることなどは一つもありませんでした。
 しっかりと水中に沈んでいったマネキンの、2対の無機質な目が、海面に揺れる布きれをただ見つめていました。

「こまった……かっこよく水に沈みながら
 親指とか立てる予定だったのに」


 言っても仕方のないことです。
 沈まない程度とはいえ、いくらかの水を吸ってしまい重たくなった袖は持ち上げるのも億劫です。このままぷかぷか波間に揺れて消えていくのも風情かな、と思いました。

 はあ、と溜息をひとつ。

「……あーあ。
 おとなしく一緒の船に乗っておけばよかったし、
 せっかく連れ戻しに来てくれたんだから
 付いて帰れば良かったのにね」


 けれども、そうはなりませんでした。
 少しばかり意地を張ってしまったのでしょう。悲劇ぶって憐憫のひとつでも買いたかったのでしょう。
 悲嘆が本物だったとしても、ただ悲しみ嘆くだけしかできなかったのは紛れもない弱さでした。それだけでした。


「あーあ」


 呟く声は、だんだん荒くなっていく波に消えて、きっとどこにも届きませんでした。




















 次に目を覚ましたのは、何処ともしれない砂浜でした。

「んぇ、ここ……どこ」


 辺りを見回せば、ずいぶん見覚えのある……けれどもさまざまな箇所が決定的に違う自然の風景。
 どれほど流されていたのでしょうか。1週間、1ヶ月、1年、あるいはもっと……随分長く眠っていたような気がします。

「……あつい……」


 今度もやはり真夏だったようで、照りつける日差しはひどく手荒く染み込んだ海水を乾かしていきます。今の自分はきっととんでもない匂いでしょう。

「み、水」


 とても喉が渇いていました。半分以上生理的な欲求に従って呻いて……それを叶えてくれる人などはこの場にいないことを知りました。


「今度は、一人なんだ。そっか」

「……どうしよっかな……」

 ぺたんと砂浜に座り込んで、揺れる波間を眺めます。
 海の果てまで見渡しても、船などはどこにも浮かんでいませんでした。





 ふと、足元になにかが転がっていることに気が付きました。
 小さな箱でした。金属で補強されていた部分はすっかり錆びきって、一緒に長い漂流に付き合っていたからでしょう、あちこちがぼろぼろになっています。

「……………………」

 手にとって、開きます。中には干し肉やら包帯やらが雑多に詰め込まれ、どれも潮でぐしょぐしょになっていました。
 けれども……ちゃんと乾かして洗えば、どれもまだ使えそうでした。

 厚い手袋の指先で、何も書かれていない箱の蓋を静かになぞりました。

「…………これを、使い切るまで、」

 もう少しだけ。