Eno.645 ヴィクトル・トート

帰還

【――『四次拡張迷宮ラビュリントス』、開放確認されました】
【――接続を確立しています――】

【――多軸間誘導装置アリアドネ・ストリングス、起動します――】


 さよなら、或いは、またね、と小さく挨拶を交わした後、誰もいない甲板に出る。
 端末を通じて回収を要請すると、程なくしてオペレーティング・システムの無機質な声が聞こえた。
 頭の上に乗っかったヨナが、んえー……と嫌そうな声を出す。
 気持ちはわかる。発展途上の装置の使い心地は、はっきり言って最悪だ。
 だが、確実性において現状他に勝るものはないのだから仕方がない。
 このまま船に乗っていられればいいのになぁ、と、最後にヴィクトルはもう一度海を見渡した。

 それがこの世界での、最後の記憶だった。



 ***



「……――ッ!!」

 ばち、と弾かれるように目を覚ます。
 まとわりつくような空気も、潮の匂いも、もうどこにもない。
 空調で完璧に設定された温度。微かな薬品の匂い。断続的な機械の音。
 慌てて体を起こしてみれば、そこは嫌と言うほど見慣れた場所だった。

 ふらつく頭を片手で押さえる。何本もの管が絡まる感触。
 はっきりしない思考に、すぐに何が起きたかを察して、ヴィクトルはぎり、と歯噛みした。

「っ、くそ……!」

 知らないうちにあちこちに繋がれていた計器を、舌打ちしながら乱暴な手つきで払い除ける。
 近くにいた職員が慌ててやってきて、ヴィクトルを止めようと手を伸ばしてきた。

「どうした、No.14。落ち着け、通常の検査をしているだけだから……」

「煩い!! 僕は嫌だって言ったのに、また勝手に眠らせたな!?」

 声を荒げる。徐々に直前の記憶が蘇ってきた。
 アリアドネを通じて本部に帰還して、その直後に、鎮静剤を打たれて眠らされた。
 意識が朦朧としているのをいいことに、まるで騙し討ちみたいに。
 暴れるからとか、言うことを聞かないからとか、いつも通り適当な理由をつけて。

「僕に触るな!! いつもいつもそうやって――……」

 伸ばされた手を、振り払うように叩き落とす。
 そうしてふと、この場に他に何もないことに気づいた。
 周囲を見回しても、殺風景な検査室には無機質な機器しか見当たらない。
 散々見てきた海も木も砂も花も、もちろん見えるはずがない。

「……荷物は?」

「え?」

「僕の荷物は!! 一緒に持って帰っただろう、どこにやった!?」

 食ってかかると、剣幕に驚いたのか、職員が困ったように視線を泳がせた。
 一体何事かと、他の研究員が検査室の中に入ってくる。

「どうしました?」

「それが、どうも興奮状態でして……」

 研究員たちの会話に、更に苛立ちを募らせて、ヴィクトルは唇を噛む。
 触るのも嫌だったけれども、勢いに任せて腕に刺さっていたカテーテルを引き抜こうとした。
 近くに立っていた職員が慌ててそれを押さえる。

「やめなさい、怪我をするぞ。荷物は、一応検査をしているはずだから……」

「勝手なことするなって言ってるだろ!! 返せ!! あれは僕のものだ!!」

「落ち着いてください、No.14。検査は必要なものですから、終わればちゃんと返しますので……」

 もう一人の研究員も、どうにか落ち着かせようと声をかけてくる。
 けれども話しかけられれば話しかけられるほど、ヴィクトルの苛立ちは増していった。
 自分のものを不当に奪われた。そんな意識が、感情をどうしても昂らせてしまう。
 それほどのことではないと、頭のどこかでは理解していたが、自力で抑えることは難しかった。

 今にも殴りかからんばかりに叫び散らすヴィクトルの後ろで、再び検査室の扉が開く。
 正面にいた研究員が、驚いたように目を見開いた。

「ヴィクトル、おかえり。……どうかした? 随分怒っているみたいだけど」

「……ッ、……ジーン」

 振り返り、姿を確認して、ヴィクトルは少しだけ気を静めた。
 けれども「No.13、」と職員が呟く、その声にまた軽く舌打ちする。
 努めて気にしないように、検査台に座ったまま彼の方へ体を向けた。

「――ただいま。ジーン、僕の荷物は?
 どこにあるか知らない?」

 帰還直後の記憶には、確かに彼の姿もそこにあった。
 アリアドネのところにいたのなら、その後荷物がどうなったかも知っているはずだ。
 尋ねると、にこやかな笑顔が返ってくる。
 その時やっと、ヴィクトルは彼の腕にヨナが抱えられていることに気づいた。

「荷物? ああ、それなら、検査に回すって言っていたんだけど。
 ……この子が暴れるから、結局僕が引き取ってきたよ」

「暴れたって? ヨナが?」

「そうだよ。何にも触らせてくれないくらい、暴れられてしまって。
 装置を壊されると困るから回収してくれって泣きつかれて、今はとりあえず研究室の僕の部屋に」

 何も触っていないから安心して、と再度笑いかけられて、ヴィクトルはようやく肩の力を抜いた。
 ジーンのところにあるのなら、とりあえず問題はないだろう。
 ばさりと大きな羽音を立てて、ヨナがヴィクトルの元に飛んできた。
 島にいた時よりも、ずっと大きくて力のある姿。
 ”もどき”とはいえ、名のある化け物だ。全力で暴れられては堪らないだろう。
 よくやった、と両手で撫で回すと、ぐるぐると喉を鳴らしてヨナがふふんと笑う。

『お前のことだから、勝手に触られたくないと思ってな。
 めちゃくちゃ褒めてくれていいぞ』

「いいぞ、ヨナ。さすがだな。
 後で特別にいい缶詰をやるからな」

『だから、おれは犬でも猫でもねーんだって』

 さて、とひと通りヨナを構って、だいぶ落ち着いたヴィクトルは側で困ったように立っていた研究員に視線を向けた。
 まだ管の刺さったままの腕を持ち上げ、ん、と小さな声で要求する。
 研究員が、諦めたように深い深い息をついた。

「……いいですか、No.14……ヴィクトル。
 後で必ず、もう一度検査をしますからね」

「わかってるよ。荷物だけちゃんとしたら戻るから。
 ナマモノとかいろいろあるんだよ。心配だろ」

「なまもの!? それはちょっと……いえ、まあ、いいです。
 また後で、しっかりと、お話しましょう」

 溜息をつきながら、研究員がカテーテルの処理をする。
 ようやく全ての管から自由になったヴィクトルは、ヨナを抱えて検査台から飛び降りた。

「行こう、ジーン。お前に見せるものがいっぱいあるんだ」

「本当にいいの? ……申し訳ありません、室長さん、主任さん。
 後で絶対に連れてきますので」

 すまなそうに言う彼に、二人の研究員は苦笑しながら軽く手を振った。
 それを完全に無視して、ヴィクトルはヨナを肩に乗せたまま、彼の背を押して検査室を後にする。

 見せるものも、話すことも、山ほどあるのだ。時間ばかりかかる検査にかまけていられない。
 きっと喜ぶだろう、そう思って、持ち帰ったものがたくさんあるのだから。
 余計なことに拘っている暇はない。

 僕たちには、タイムリミットがあるのだから。