RECORD
Eno.171 『薬煙』のルイシャの記録
目を開いて、まず見えたのは古そうなフローリング。
次に感じたのは頭の中が靄がかったような、なんともいえない不快感。
かりりと床を引っ掻いた爪には何の色も塗られておらず、自分自身の手もうんと小さく頼りない。
それらの情報を拾った瞬間、脳が即座にこれは夢なのだと結論を弾き出した。
ルイシャ・ノトゥイが今に至る理由であり原因の一つ。どれだけ時間が流れても、揺らぐことなく根の部分に横たわり続ける時間。
流れ去ってもなお存在を主張し続け、膿んだ傷のように痛みを放ち続け、けれど忘れられぬ味を知ることになった過去。
これは夢。己の過去を焼き直した、ふとした瞬間に繰り返し見てきた――最初の罪の夢。
心の中でため息をつく。
もう何度も見た夢だ。どのようなことが起きるのかも、どうすれば夢が終わるかもわかりきっていて、退屈で仕方ない。
さらに、この夢から覚めたあとはまともに動けなくなるほど、ひどく体調を崩す可能性が非常に高い。ため息の一つや二つ、ついたって許されるだろう。
だが、全ての始まりでありきっかけになった味――人間を惑わせ、狂わせ、壊す支配と蹂躙の味。
幼き日にはじめて味わったあの味をもう一度味わえることだけは喜ばしいといえるか。
そこまで考えて、気づく。
ああ――自分は今、あの味に飢えているのか。
ぱちりと景色が切り替わる。手首を縛っていたはずの縄はいつのまにか解け、手の中には小瓶が握られている。
かつて選んだ行動をもう一度なぞり、手を開く。滑り落ちた小瓶が床に落ちて割れ、揮発性の中身が周囲を満たした。
自らも気体を吸い込むことになるが構わず、息を吸い込み、唇に音を乗せる。
ぐらつく頭を抑えながら化け物らしく、船乗りの間で囁かれる海魔らしく歌ってやれば、辺りに満ちた気体の効果と重なって、幻が現実を飲み込んでいく。
「――はは、」
味方を味方と認識できなくなって、混乱が広がって、完成する地獄絵図。
「ははは、」
たった一人だけで作り出したそれを前に、思わず笑い声がこぼれて。
――俺たちを下に見て、踏みつけて、強者として振る舞っている連中は。
あんなにも強いと思っていた人間様たちは。
こんな簡単に狂うほど脆弱だったのか!
腹の底からこみ上げてくる笑いとともに、そんな感情が心を灼いて。
暗転。
夢は、いつもそこで覚める。
――――――――――。
―――――――。
――……。

目を開く。見慣れてきた天井が真っ先に視界に映る。
カーテンの隙間から入り込んでくる陽の光が鬱陶しくて、片腕で目元を覆う。その状態で喉を震わせれば、寝起き特有の掠れた声が鼓膜を震わせた。
寝覚めは最悪。けれど、全身が燃えているかのような熱と指先一本動かすのも苦しくなるほどの痛みはない。
今回は体調を崩さずにすんだらしい。珍しいこともあるものだ。動けなくなっていたら丸一日を無駄にするところだったから助かったが。
ゆらりとした動きで身を起こし、サイドテーブルに置いていた水差しを手にとる。
すぐ傍に逆さまにした状態で置いてあったグラスも引き寄せ、ひっくり返してから中に水を注ぐと勢いよく呷った。
ぬるい水と一緒に悪夢の残滓も飲み干してなかったことになってくれたらいいのに、脳裏にへばりついたそれはこれっぽっちも薄れてくれやしない。

思わずそんな呟きが唇からこぼれ落ちたが、わかっている。
この悪夢は簡単には離れてくれない。
これは己の過去からくる夢。確かに存在した時間であり記憶。過去からくるものが簡単に離れるわけがない。
それを、忘れないうちは。
テーブルの上に広げたままになっている薬草と調薬道具たちに目を向ける。
ベッドから離れ、テーブルに広がった薬たちのうち、小袋に入れた錠剤を指先でつまみ上げる。
けれど、それを口に運ぶことはなく、再び元の位置に戻した。
フラウィウィスに来てから知り合った闘士の一人は、これを勧めたときに薬に頼る気はないと言っていたが――自分も同じだ。
これを飲めばあの悪夢に悩まされることはなくなるが、これを飲むつもりはない。
良い夢だって、自分にとっては等しく悪夢なのだから。

呟き、いまだ残る悪夢の残滓を振り払う。
脳裏にへばりつく景色を無理やり剥がし、勢いよく窓際のカーテンを開いた。
Curiosity killed the cat.
あの日殺された猫は、不自由な安寧の中で守られていた幼い日の自分だ。
Curiosity killed the cat.
目を開いて、まず見えたのは古そうなフローリング。
次に感じたのは頭の中が靄がかったような、なんともいえない不快感。
かりりと床を引っ掻いた爪には何の色も塗られておらず、自分自身の手もうんと小さく頼りない。
それらの情報を拾った瞬間、脳が即座にこれは夢なのだと結論を弾き出した。
ルイシャ・ノトゥイが今に至る理由であり原因の一つ。どれだけ時間が流れても、揺らぐことなく根の部分に横たわり続ける時間。
流れ去ってもなお存在を主張し続け、膿んだ傷のように痛みを放ち続け、けれど忘れられぬ味を知ることになった過去。
これは夢。己の過去を焼き直した、ふとした瞬間に繰り返し見てきた――最初の罪の夢。
心の中でため息をつく。
もう何度も見た夢だ。どのようなことが起きるのかも、どうすれば夢が終わるかもわかりきっていて、退屈で仕方ない。
さらに、この夢から覚めたあとはまともに動けなくなるほど、ひどく体調を崩す可能性が非常に高い。ため息の一つや二つ、ついたって許されるだろう。
だが、全ての始まりでありきっかけになった味――人間を惑わせ、狂わせ、壊す支配と蹂躙の味。
幼き日にはじめて味わったあの味をもう一度味わえることだけは喜ばしいといえるか。
そこまで考えて、気づく。
ああ――自分は今、あの味に飢えているのか。
ぱちりと景色が切り替わる。手首を縛っていたはずの縄はいつのまにか解け、手の中には小瓶が握られている。
かつて選んだ行動をもう一度なぞり、手を開く。滑り落ちた小瓶が床に落ちて割れ、揮発性の中身が周囲を満たした。
自らも気体を吸い込むことになるが構わず、息を吸い込み、唇に音を乗せる。
ぐらつく頭を抑えながら化け物らしく、船乗りの間で囁かれる海魔らしく歌ってやれば、辺りに満ちた気体の効果と重なって、幻が現実を飲み込んでいく。
「――はは、」
味方を味方と認識できなくなって、混乱が広がって、完成する地獄絵図。
「ははは、」
たった一人だけで作り出したそれを前に、思わず笑い声がこぼれて。
――俺たちを下に見て、踏みつけて、強者として振る舞っている連中は。
あんなにも強いと思っていた人間様たちは。
こんな簡単に狂うほど脆弱だったのか!
腹の底からこみ上げてくる笑いとともに、そんな感情が心を灼いて。
暗転。
夢は、いつもそこで覚める。
――――――――――。
―――――――。
――……。

「――……ぁ゛ー……」
目を開く。見慣れてきた天井が真っ先に視界に映る。
カーテンの隙間から入り込んでくる陽の光が鬱陶しくて、片腕で目元を覆う。その状態で喉を震わせれば、寝起き特有の掠れた声が鼓膜を震わせた。
寝覚めは最悪。けれど、全身が燃えているかのような熱と指先一本動かすのも苦しくなるほどの痛みはない。
今回は体調を崩さずにすんだらしい。珍しいこともあるものだ。動けなくなっていたら丸一日を無駄にするところだったから助かったが。
ゆらりとした動きで身を起こし、サイドテーブルに置いていた水差しを手にとる。
すぐ傍に逆さまにした状態で置いてあったグラスも引き寄せ、ひっくり返してから中に水を注ぐと勢いよく呷った。
ぬるい水と一緒に悪夢の残滓も飲み干してなかったことになってくれたらいいのに、脳裏にへばりついたそれはこれっぽっちも薄れてくれやしない。

「いつになったら見なくなンだか……」
思わずそんな呟きが唇からこぼれ落ちたが、わかっている。
この悪夢は簡単には離れてくれない。
これは己の過去からくる夢。確かに存在した時間であり記憶。過去からくるものが簡単に離れるわけがない。
それを、忘れないうちは。
テーブルの上に広げたままになっている薬草と調薬道具たちに目を向ける。
ベッドから離れ、テーブルに広がった薬たちのうち、小袋に入れた錠剤を指先でつまみ上げる。
けれど、それを口に運ぶことはなく、再び元の位置に戻した。
フラウィウィスに来てから知り合った闘士の一人は、これを勧めたときに薬に頼る気はないと言っていたが――自分も同じだ。
これを飲めばあの悪夢に悩まされることはなくなるが、これを飲むつもりはない。
良い夢だって、自分にとっては等しく悪夢なのだから。

「……二度寝する気も起きねェし、いつもよか早いが支度でもしようかね」
呟き、いまだ残る悪夢の残滓を振り払う。
脳裏にへばりつく景色を無理やり剥がし、勢いよく窓際のカーテンを開いた。
Curiosity killed the cat.
あの日殺された猫は、不自由な安寧の中で守られていた幼い日の自分だ。