RECORD

Eno.164 メフィスの記録

魔界、窓のない部屋から

「…………」


念話を終えた僕は、読みかけだった本をそのままに、体の大きさには到底見合わない特注品のベッドへと寝転んだ。

兄さんから前回の念話の記憶が消えていた。きっとハイト老の仕業だろう。
接触にはもう少し時間が掛かると思っていたけれど、そこは父様が最も信頼している配下の一人。
数万の時を生きる悪魔には、その程度は造作もないことらしい。

父様からハイト老に課せられた命は、人間界の偵察。そして、メフィス兄さん見つける処分すること。

でも僕は、出立前のハイト老とある契約を結んだ。
悪魔が悪魔と契約だなんて、我ながら馬鹿らしくて笑ってしまいそうになる。

生まれてから今日に至るまでで、父様の命に背くのはあれが初めてのことだった。
もちろん、兄さんには何も伝えていない。
仮に真実を知ったなら、心配性な兄さんはきっと、どんな手段を使ってでも魔界こっちに戻ってきてしまうだろうから。



ねえ兄さん。
あの日兄さんは、ボロボロになって部屋に帰ってきた僕を見て、ずっと謝り続けていたよね。
あの時の僕には、兄さんが何を言っているのか理解できなかったんだ。

僕は兄さんと違って父様から期待をかけられているのに、
父様は僕のことを思って厳しい指導を課してくれているのに、
どうして兄さんが謝るんだろう、って。

でも呼び出された人間界でリティルさんたちと出逢って、色々な人たちと交流して。
僕は少しだけ、違う考え方ができるようになったんだ。
あの日謝り続ける兄さんを見て自然と流れた涙の意味も、兄さんが流した涙の意味も、その時に理解できたんだよ。

ねえ兄さん。
これは内緒の話なんだけど、僕は兄さんのことを羨ましいと思っているんだよ。
"悪魔"なんて縛りに囚われず、自分のやりたいことを見つけて、好き勝手に暮らして。
そんな生き方をできる兄さんが、僕は羨ましいんだ。
今の兄さんが持っている物は全て、今の僕が持っていないモノ。
……いつか兄さんは「僕のことが羨ましい」だなんて言っていたけれど、これでおあいこにならないかな?

ねえ兄さん。
僕は、兄さんに生きていてほしいんだ。
馬鹿みたいな夢を抱いたまま、悪魔らしくない悪魔として、これからもずっと生きていてほしい。

いつか兄さんは魔界この世界のことを「夢も希望もない世界だ」と言っていたけれど、それは間違っていると思うよ。
だって、ここには兄さんがいたんだから。

僕にとっての兄さんは、夢であり、希望なんだ。
兄さんは僕が持っていない、大切なものを持っている。
僕よりも才能がないのに、僕が考えているよりもずっと大きなことをやろうとしている。
あ、こんな言い方をしたら、兄さんはきっと怒るよね。



……ねえ、兄さん。
もし魔界から「メフィス」という悪魔の存在が塗り潰されてしまったとして、その時僕は兄さんのことを覚えていられるのかな。
真っ黒に塗り潰された兄さんは、僕という弟がいたことを覚えていてくれるのかな。

最初の願いは難しいかもしれないけれど、もしもう一つの願いが叶ったのなら——。

ハイト老が僕との契約僕の願い守って聞いてくれるかはわからない。
僕たちのことを一番長く見てくれていた人だから、少しでも情が湧いていたのならとは思うけれど……。
世の中、兄さんみたいな悪魔ばかりじゃないもんね。



ねえ、兄さん。
いつか兄さんが誰よりも強い『最強の大悪魔正義の味方』になれたのなら、その時はこの魔界を変えてくれるって信じてるからね。
こんな息苦しい世界じゃない。誰とでも気軽に話せて、それこそ人間界みたいな明るい世界に。

もしその日が来たのなら、窓のある部屋で一緒に空を見上げながら、昔話をしようね。
今の魔界はずっと曇り空だけど、兄さんが変えてくれた世界では、きっと青空が見られるはずだから。

何年、何十年、何百年何千年先の話になるかはわからないけれど、僕はずっと待ってるよ。
そしてその日が来た時には……もう一度、僕の名前をフェレスって呼んでくれたら嬉しいな。



瞼が重い。
黒く塗り潰されていく意識の中で、誰かの笑った顔を見た気がする。





——ああ、そうだ。これだけは言っておかなくちゃ。

次に会えるのがいつになるかはわからないもんね。

いつかまた、一緒に笑い合える。その時まで——









「——それじゃ、またね。メフィス兄さん」