RECORD
Eno.171 『薬煙』のルイシャの記録

最悪だ。
雨音に混じった声を耳にして、最初に頭に思い浮かんだのはその一言だった。
人目につきにくそうな場所を求めてこの路地の奥に身を隠したというのに、どうして位置がわかったのか。
こちらが知らないだけで、あの小生意気な狙撃手のように特定条件下でのみ全てを見渡せる天上の目を持っているとでもいうのか。
肌を濡らす雨粒が遮られ、影が落ちるのを感じる。
緩慢な動きで閉ざしていた瞼を持ち上げて見上げれば、予想通り、青みがかった銀髪に杜若と紫苑の目をした竜族の少女が東洋の傘をさしてこちらを見下ろしていた。
近づくなと殺気を向けてみても、少女は表情一つ変えず、怯む様子も一切見せず、傍へ座り込む。
いつだってそうだ。彼女はこちらが何をしてもその表情を変えない。
揺らがず、愉悦を滲ませることもなく、ただ淡々とするべきことを思考して実行する。
本当に心があるのか疑ってしまうほどに。



覚えがあるものだったら、今頃こんな人目につかない場所で転がっていない。
そう答えたくても体内に侵入した毒に抗うのが精一杯で、言葉を発するのも億劫で仕方ない。
無言のまま答えずにいると、少女の手が傷ついたこちらの手を取って引き寄せてきた。
反射的に振り払おうとするが、毒のせいでまともに力が入らない。
こちらが振り払おうとしたのを感じ取ったのだろう。握る力を強くされ、思わず小さく舌打ちが出た。



雨音の中に混じる、鈴を転がすかのような声。
こちらの弱みにつけこもうとしているわけではなく、ただ静かに問いかけてくる声。
彼女の声はいつだってそうだった。いつも静かに響き、こちらの心に入り込んでくる。
乾いた土に雨水が染み渡るように。
そこまで思考を巡らせて、ふと、彼女の種族について知るために調べたことを思い出す。
――ああ、竜は吉兆を呼ぶ存在としても語り継がれていたな、と。
人にとって善い存在になることもあるから、きっとこちらの心にするりと入り込んでくるのだろう、と。
緩慢な動作で重い指先をわずかに跳ねさせ、意識を己の内側に向ける。
ぐるりと巡るそれに意識を集中させれば、己の中を巡る血へ、己を蝕むそれと同じ効果を付与させる。
望んだとおりにしてやった――その思いを込めて彼女の手を軽く握り返した直後、力を抜いてゆっくりと瞼を下ろした。
そうして、過去と今が混ざりあった意識の中で思う。
一度は殺し合った関係である相手に対しても手を伸ばして拾い上げることができる。
数多の命を葬ってきた手で、他の命をすくい上げることもできる。
他者にとっての厄災になると同時に、誰かにとっての吉兆にもなれる。
常に思考を巡らせ、自分自身と向き合い、問いかけ続けながらも先へ進むことができる。
そういう少女だからこそ。
神様とやらは、彼女が幸せになるのを許したのだろう。
――――――――――。
―――――――。
――……。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
視界に映る景色は見覚えのある室内のもの。鼻をくすぐるのは嗅ぎ慣れた紫煙と薬草の香り。
ぼんやりと周囲の状況を確認して身じろぎをした瞬間、足――特に膝裏の辺りから全身へ激痛が駆け抜け、反射的にベッドシーツを強く握りしめた。

まどろんでいた意識が痛みで急激に引き戻され、反射的に身を丸める。
それを引き金に、全身を包む気だるさと熱さ、背筋を駆け抜ける寒さを思い出し、はあと熱を含んだ息を吐き出した。
頭がぼんやりとして十分に働かないが、自分の身に何が起きているかは理解できる――だって、あんなにも手ひどく負けたのだから。
短く浅い呼吸を何度か繰り返したのち、ベッドシーツを握っていた指先から力を抜き、痛みと発熱で軋む身体をゆっくり起こす。
――こんな状態だから、あのときの夢を見たのか。
青みがかった銀の長髪。杜若と紫苑の色に染まった双眸。
水晶を思わせる角に、白に近い薄水色の鱗に覆われたゆったりとした流さの尾を持つ竜族。
彼女が依頼を受けたことによる殺し合いから縁が始まった――腐れ縁であり、元顧客という奇妙な関係性の相手。
そして、こちらの知らぬ間に自分だけの幸福を見つけ、暗闇から光の下へ向かっていった亜人種の少女。
遠い過去、今のように一人で苦痛に耐えていたとき、彼女に助けられたことが確かにあった。
きっと今の状態が引き金になり、あの日の記憶を思い出し、夢という形で見たのだろう。

薔薇柘榴石の少女から話を聞いたときは驚いた。
ある日、それまで結んでいた契約を破棄する旨を伝える手紙をよこしてきたかと思えば、そこからとんと連絡がつかなくなって。
まあ野垂れ死んでることはないだろうと思っていたら、まさか貴族の下に迎え入れられ、実質嫁入りしていたとは。
それなら連絡の一つや二つよこしてもいいだろうとは思うが、彼女も彼女で慎重になっているのだろう。
オーレン旅薬店には、良い噂も悪い噂もある。
そこの店主と関係があると知られれば、主人と亜種族の人間の婚姻を認めない人間がそれを理由につついてくることもあるだろうから。
ばっさりと縁を断たれたって納得できるものがある――自分はそれだけのことをしてきているのだから。
そこまで考えたところで、ずき、とまた痛みが走る。

あの日の夢を見たのと、弱っているからだろう。
雨が恋しい。雨じゃなくてもいい、水が恋しい。この身に流れる血が揺蕩う水を無性に欲している。
内側から身を焼く熱を忘れられるくらいの。乾いた砂の匂いが、砂舞う砂漠の気配が遠ざかるくらいの。
回復力を高めるための薬を乱暴に引っ掴んで、口の中に放り込んで噛み砕く。
痛みを訴える片足を引きずり、頼りない足取りで水を求めるままにバスルームへ向かう。
乱暴に蛇口を捻り、流れる水が熱を持った肌を伝って落ちていくのを感じながら、ゆっくり目を伏せた。
――お前がどんな時間を過ごしてるか、わかんねェが。
間違っても俺みてェなことには、なるなよ。
柄にもなくそんなことを思ってしまったのは――きっと、助けてもらったという恩があるからなのと。
心のどこかで、彼女を同胞として認めていたからだ。
――――――――――。
―――――――。
――……。
同日、同刻。
とある世界にて。







No news is good news.

「――ずいぶんと珍しいお姿ですね」
最悪だ。
雨音に混じった声を耳にして、最初に頭に思い浮かんだのはその一言だった。
人目につきにくそうな場所を求めてこの路地の奥に身を隠したというのに、どうして位置がわかったのか。
こちらが知らないだけで、あの小生意気な狙撃手のように特定条件下でのみ全てを見渡せる天上の目を持っているとでもいうのか。
肌を濡らす雨粒が遮られ、影が落ちるのを感じる。
緩慢な動きで閉ざしていた瞼を持ち上げて見上げれば、予想通り、青みがかった銀髪に杜若と紫苑の目をした竜族の少女が東洋の傘をさしてこちらを見下ろしていた。
近づくなと殺気を向けてみても、少女は表情一つ変えず、怯む様子も一切見せず、傍へ座り込む。
いつだってそうだ。彼女はこちらが何をしてもその表情を変えない。
揺らがず、愉悦を滲ませることもなく、ただ淡々とするべきことを思考して実行する。
本当に心があるのか疑ってしまうほどに。

「毒ですか」

「……。……毒」

「貴方様が覚えのあるものでしょうか」
覚えがあるものだったら、今頃こんな人目につかない場所で転がっていない。
そう答えたくても体内に侵入した毒に抗うのが精一杯で、言葉を発するのも億劫で仕方ない。
無言のまま答えずにいると、少女の手が傷ついたこちらの手を取って引き寄せてきた。
反射的に振り払おうとするが、毒のせいでまともに力が入らない。
こちらが振り払おうとしたのを感じ取ったのだろう。握る力を強くされ、思わず小さく舌打ちが出た。

「ルイシャ様」

「……」

「その毒を、貴方様の血で再現する余力は残っておりますか」
雨音の中に混じる、鈴を転がすかのような声。
こちらの弱みにつけこもうとしているわけではなく、ただ静かに問いかけてくる声。
彼女の声はいつだってそうだった。いつも静かに響き、こちらの心に入り込んでくる。
乾いた土に雨水が染み渡るように。
そこまで思考を巡らせて、ふと、彼女の種族について知るために調べたことを思い出す。
――ああ、竜は吉兆を呼ぶ存在としても語り継がれていたな、と。
人にとって善い存在になることもあるから、きっとこちらの心にするりと入り込んでくるのだろう、と。
緩慢な動作で重い指先をわずかに跳ねさせ、意識を己の内側に向ける。
ぐるりと巡るそれに意識を集中させれば、己の中を巡る血へ、己を蝕むそれと同じ効果を付与させる。
望んだとおりにしてやった――その思いを込めて彼女の手を軽く握り返した直後、力を抜いてゆっくりと瞼を下ろした。
そうして、過去と今が混ざりあった意識の中で思う。
一度は殺し合った関係である相手に対しても手を伸ばして拾い上げることができる。
数多の命を葬ってきた手で、他の命をすくい上げることもできる。
他者にとっての厄災になると同時に、誰かにとっての吉兆にもなれる。
常に思考を巡らせ、自分自身と向き合い、問いかけ続けながらも先へ進むことができる。
そういう少女だからこそ。
神様とやらは、彼女が幸せになるのを許したのだろう。
――――――――――。
―――――――。
――……。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
視界に映る景色は見覚えのある室内のもの。鼻をくすぐるのは嗅ぎ慣れた紫煙と薬草の香り。
ぼんやりと周囲の状況を確認して身じろぎをした瞬間、足――特に膝裏の辺りから全身へ激痛が駆け抜け、反射的にベッドシーツを強く握りしめた。

「ぃ゛……ッ、づ、ぅ……ッ!」
まどろんでいた意識が痛みで急激に引き戻され、反射的に身を丸める。
それを引き金に、全身を包む気だるさと熱さ、背筋を駆け抜ける寒さを思い出し、はあと熱を含んだ息を吐き出した。
頭がぼんやりとして十分に働かないが、自分の身に何が起きているかは理解できる――だって、あんなにも手ひどく負けたのだから。
短く浅い呼吸を何度か繰り返したのち、ベッドシーツを握っていた指先から力を抜き、痛みと発熱で軋む身体をゆっくり起こす。
――こんな状態だから、あのときの夢を見たのか。
青みがかった銀の長髪。杜若と紫苑の色に染まった双眸。
水晶を思わせる角に、白に近い薄水色の鱗に覆われたゆったりとした流さの尾を持つ竜族。
彼女が依頼を受けたことによる殺し合いから縁が始まった――腐れ縁であり、元顧客という奇妙な関係性の相手。
そして、こちらの知らぬ間に自分だけの幸福を見つけ、暗闇から光の下へ向かっていった亜人種の少女。
遠い過去、今のように一人で苦痛に耐えていたとき、彼女に助けられたことが確かにあった。
きっと今の状態が引き金になり、あの日の記憶を思い出し、夢という形で見たのだろう。

「……今頃、何してンだろォな、あいつ……」
薔薇柘榴石の少女から話を聞いたときは驚いた。
ある日、それまで結んでいた契約を破棄する旨を伝える手紙をよこしてきたかと思えば、そこからとんと連絡がつかなくなって。
まあ野垂れ死んでることはないだろうと思っていたら、まさか貴族の下に迎え入れられ、実質嫁入りしていたとは。
それなら連絡の一つや二つよこしてもいいだろうとは思うが、彼女も彼女で慎重になっているのだろう。
オーレン旅薬店には、良い噂も悪い噂もある。
そこの店主と関係があると知られれば、主人と亜種族の人間の婚姻を認めない人間がそれを理由につついてくることもあるだろうから。
ばっさりと縁を断たれたって納得できるものがある――自分はそれだけのことをしてきているのだから。
そこまで考えたところで、ずき、とまた痛みが走る。

「……ぁ゛あ、くそ……ッ」
あの日の夢を見たのと、弱っているからだろう。
雨が恋しい。雨じゃなくてもいい、水が恋しい。この身に流れる血が揺蕩う水を無性に欲している。
内側から身を焼く熱を忘れられるくらいの。乾いた砂の匂いが、砂舞う砂漠の気配が遠ざかるくらいの。
回復力を高めるための薬を乱暴に引っ掴んで、口の中に放り込んで噛み砕く。
痛みを訴える片足を引きずり、頼りない足取りで水を求めるままにバスルームへ向かう。
乱暴に蛇口を捻り、流れる水が熱を持った肌を伝って落ちていくのを感じながら、ゆっくり目を伏せた。
――お前がどんな時間を過ごしてるか、わかんねェが。
間違っても俺みてェなことには、なるなよ。
柄にもなくそんなことを思ってしまったのは――きっと、助けてもらったという恩があるからなのと。
心のどこかで、彼女を同胞として認めていたからだ。
――――――――――。
―――――――。
――……。
同日、同刻。
とある世界にて。

「――……」

「……あら、レオ様。どうかなさいましたか?」

「いえ、大したことでは。ただ……とある殿方のことを思い出しまして」

「ええ、ええ。わたくしがある依頼を引き受けたことが出会いになった、腐れ縁のようなお方です」

「旅薬師としても、情報屋としても、そして武人としても実力をお持ちで……特に情報屋としては、わたくしが知る中でもっとも優秀かと」

「この先、表の世界から得られる情報だけでなく、裏の世界からの情報も必要になるときがあれば――そのときは、レオ様にもご紹介できるやもしれませんね」

「……無論、そのようなときが来ないのが一番ですが」