RECORD

Eno.171 『薬煙』のルイシャの記録

Love is blind.


 
 母は、美しい人だった。
 朝焼けを溶かしたかのような、美しい色合いをした鱗と角度によって色を変える虹月長石アンデシンラブラドライトの目が印象的な、透き通った声をもつ人だった。
 娼館という一夜の甘やかな夢を見せる場において子供という存在は邪魔でしかないだろうに、ルイシャという存在を認め、慈しみ、望んでくれるような――そんな、愛情深く慈悲深い人だった。

 一口に人魚族といっても、その一族はさまざまなものがある。
 そのうち、ロニカ族は歌に特化した一族で、ロニカ族の人魚たちは皆、歌が上手いらしく――母も例外ではなかった。
 耳にした者の心を惹きつけ離さない、澄み渡った海を思い出させる歌声を紡ぐ様は『楽譜ノトゥイ』の姓を持つのに相応しいと感じるものだった。
 見目も、声も、心さえも美しい。
 だからだろう。どろどろとした人の欲に満ちたあの場所で、多くの者が母を必要とし、欲していたのは。


 多くの者が、母を傷つけたのも。


 美しいものは人の心を狂わせる。それが人魚族という種族であれば尚更。
 血は不老不死の霊薬になるという噂。その肉を口にして永遠の時間を手に入れたという伝説。愛玩として優れている見目に歌声。
 母には人の善意も悪意も集めやすい条件が揃っていて、向けられた悪意で母の身体は深く傷ついていた。
 元々あまり身体が強くなかったそうだが、それが悪化し、時折床に伏せることがあるほどに傷ついていて――それでも。
 それでも、母は人間の美しさを語った。優しさを語った。悪意を向ける者もいるけれど、それが全てではないのだと語った。
 人間への信頼と愛を失わず、迎えに来ることのない愛を信じていた。


 どうしてあんなに人間を信じることができたのか。わからない。
 信頼できる人間と出会ったら、人間を愛することができたら、あそこまで盲目的に人間を信じることができるものなのか。
 そう思い、星光と月光の目をした狙撃手に――主人殺しとして名を馳せた奴隷身分だった狼種の狙撃手に聞いてみたことがある。


「なァ。お前さんは人間に虐げられてきたンだよなァ」


「……何、急に。そうだけど。あんたなら知ってるでしょ、情報屋さん」


「お前さんの中で、信頼できる人間が数人いたとして。そいつらの存在があるからって、人間を好きになれるか?」




 こちらの唐突な問いに、狙撃手は銀と金の両目を訝しげに細めた。
 わずかな静寂のあと、視線を外し、狙撃銃を構えて片目を伏せる。
 この狙撃手が渾天の目を使うときの合図だ。きっと、あの瞼の裏には上空から見たターゲットの姿が映っているのだろう。


「俺の中でも、こいつは信頼できるなっていう人間はいるよ」




 答えながら、狙撃手の指先が引き金にかけられる。


「でも」




 強く、引き金が引かれて。


「それで好きになれるのは『その人』であって、『人間』を好きになれるかどうかは、別の話でしょ」




 銃声。
 硝煙の香り。
 戦場を形作るそれらの要素を発し、狙撃手は銃を下ろす。


「俺は信頼できる人間のことはそこまで嫌いじゃないけど、それ以外の人間は嫌いだよ」


「忘れられるわけがないでしょ、人間にされたことを。首輪こんなものまでつけられて、最悪の日々から抜け出した今でも外せなくて苛立ってるのに」


「あんたもそうじゃないの、ルイシャ・ノトゥイ」




 ぎらぎらと人間への怒りを燃やし続ける目が、こちらを見る。


あんたも、人間にされたことが忘れられないから、こんなことをしてるんじゃないの




 返されたその答えに安堵して、けれど同時にますますわからなくなった。母が人間を信じ続けられた理由を。
 ただ一つ、確信したのは。



 自分はきっと、母と同じ歌は。
 あの、慈愛に満ちた透き通った歌は。
 決して、歌うことができないということだ。






 船を沈める化け物が、慈愛の歌を歌えるわけがないだろう?