RECORD
Eno.171 『薬煙』のルイシャの記録
大切なものは失ってから気づくという言葉がある。
それが真実だと知ったのは、安寧に満ちた揺り籠を抜け出した日。
他者を支配し蹂躙する甘美な味を知ったあの日、一つを知ったかわりに一つが己の手の中から滑り落ちた。
何も知らなかった純朴で純粋な自分自身が好奇心に殺された瞬間、自分はあの言葉は本当であったのだと思い知った。
大切なものは己の手の中にあるうちは、それが大切だと気づかない。
それと同じで、何も知らないうちはそのことを知らないままのほうが幸せでいられたのだと気付けない。
気付くのはいつだってその事実を知ったあとで、一度知ってしまえばどれだけ後悔しても手遅れだ。
他の色を知った白が、どれだけその色を洗い流しても完全な純白だった頃には戻れないように。
真実を知ってしまったあとは、それを知らなかった頃には二度と戻れない。
容器が割れてしまえば最後、そこに収まっていた水は地面に広がり戻らない。
いくら戻そうとしたってそれは不可能で、新しい容器を用意して水を注いだところで容器が一度割れたことも水が溢れた現実も変えられない。
いくら後悔したって、知らなければよかったと叫んだって、一度起きてしまったことは変えられない。変えようがない。
わかっている。世界はそういうものだ。そういう風にできていて、そういう風に巡っている。
そうだ、わかっている。だからこれは自分のせい。知りたいと叫ぶ己の心に負けた自分のせいだ。
ああ、でも、くそ。こんなの最悪だろう。嘆きたくもなるだろう。知らないほうがよかったと叫びたくもなるだろう。
脳裏に母の甘やかな声が蘇る。幸福を歌った声が蘇る。甘く両目を細めて語ってくれた言葉を思い出す。
現実だと思いたかった。本物だと思いたかった。真実だと思いたかった。なのに――ああ、くそ、本当に。
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手の中でぐしゃりと紙が潰れる。
何も知らなければ、夢を見たままでいられたのに。
母が語ったそれが真実で現実なのだと思い続けていられたのに。
深く後悔しても、もう遅い。もう取り返しがつかない。
容器はもう、割れてしまったのだから。
――――――――――。
―――――――。
――……。
……最悪の目覚めだ。
ゆっくりとベッドから身を起こし、ぐしゃりと自身の前髪を掴んで最初に思ったことがそれだった。
手の中に書類はない。掴んでいるのは己の前髪とベッドシーツで、そのことがあれは夢だったのだと物語っている。
ああ、本当に最低で最悪の目覚めだ。
頭の中には未だに夢の内容がこびりついていて、肺の中はぐるぐると淀んだ空気が渦巻いている。
肺だけでなく胸の中にも言いようのない不快感とぶつけ先のない苛立ちが根を張っていて、カーテンの隙間から入ってくる光が鬱陶しい。
深くため息をつきながら俯けば、さらりと流れ落ちてきた銀糸が視界に映り込んだ。
紫がかった銀髪。この世に生まれ落ちた瞬間からこの身に宿る色。
願掛けのために伸ばし、それなりに手入れもしてきた、褒められることも多いもの。
けれど、今はその色も鬱陶しくて、胸の中で渦巻く不快感を強めるもので、ぎりと強く歯噛みする。
褒められるのは悪い気はしない。確かに綺麗な色だろう。
でも――この色は。この銀糸は。この世に生まれ落ちた瞬間からルイシャを縛る一種の『呪い』でもある。
母と同じ色で生を受けていたら、こんな気持ちにならなかっただろう。
同じ薄葡萄色の髪で、同じ色変わりの目で――けれど、現実はそうではない。
目は母と同じ色を受け継ぐことができても、髪に宿った色は薄葡萄色ではなく紫がかった銀だった。

もう何度も繰り返し思ってきたことを改めて口に出し、己の髪から手を離す。
指通りの良い銀糸が指の隙間を通り抜け、さらりとした手触りを伝えてくる。
最低な気分になっている今はそれも苛立ちの一つになり、思わず小さく舌打ちが出た。
こんな気分のままで人前には出れない。出るわけにはいかない。
旅薬師ルイシャ・ノトゥイはいつも余裕のある、苛立ちを表に見せない人間なのだから。

瞼の裏に見えた景色を求めるまま、身支度を始める。
潮の香り、波の音、陽の光を反射する海面――自分自身に刻まれた本能が求め続けるそれを目にしたら、荒れた気分ももう少し落ち着いてくれるはず。
そんな思いに従って歩を進め、鏡の前に立つ。
磨かれた鏡の向こう側に立つ自分自身の姿を見つめて――はつ、と唇が動いた。

それは、決して答えが得られぬ問い。

It is no use crying over spilt milk.
一つの真実を知ったあの日、確かにルイシャ・ノトゥイという何も知らなかった猫はもう一度死んだのだ。
It is no use crying over spilt milk.
大切なものは失ってから気づくという言葉がある。
それが真実だと知ったのは、安寧に満ちた揺り籠を抜け出した日。
他者を支配し蹂躙する甘美な味を知ったあの日、一つを知ったかわりに一つが己の手の中から滑り落ちた。
何も知らなかった純朴で純粋な自分自身が好奇心に殺された瞬間、自分はあの言葉は本当であったのだと思い知った。
大切なものは己の手の中にあるうちは、それが大切だと気づかない。
それと同じで、何も知らないうちはそのことを知らないままのほうが幸せでいられたのだと気付けない。
気付くのはいつだってその事実を知ったあとで、一度知ってしまえばどれだけ後悔しても手遅れだ。
他の色を知った白が、どれだけその色を洗い流しても完全な純白だった頃には戻れないように。
真実を知ってしまったあとは、それを知らなかった頃には二度と戻れない。
容器が割れてしまえば最後、そこに収まっていた水は地面に広がり戻らない。
いくら戻そうとしたってそれは不可能で、新しい容器を用意して水を注いだところで容器が一度割れたことも水が溢れた現実も変えられない。
いくら後悔したって、知らなければよかったと叫んだって、一度起きてしまったことは変えられない。変えようがない。
わかっている。世界はそういうものだ。そういう風にできていて、そういう風に巡っている。
そうだ、わかっている。だからこれは自分のせい。知りたいと叫ぶ己の心に負けた自分のせいだ。
ああ、でも、くそ。こんなの最悪だろう。嘆きたくもなるだろう。知らないほうがよかったと叫びたくもなるだろう。
脳裏に母の甘やかな声が蘇る。幸福を歌った声が蘇る。甘く両目を細めて語ってくれた言葉を思い出す。
現実だと思いたかった。本物だと思いたかった。真実だと思いたかった。なのに――ああ、くそ、本当に。
「……本当に、最悪だ」
手の中でぐしゃりと紙が潰れる。
何も知らなければ、夢を見たままでいられたのに。
母が語ったそれが真実で現実なのだと思い続けていられたのに。
深く後悔しても、もう遅い。もう取り返しがつかない。
容器はもう、割れてしまったのだから。
――――――――――。
―――――――。
――……。
……最悪の目覚めだ。
ゆっくりとベッドから身を起こし、ぐしゃりと自身の前髪を掴んで最初に思ったことがそれだった。
手の中に書類はない。掴んでいるのは己の前髪とベッドシーツで、そのことがあれは夢だったのだと物語っている。
ああ、本当に最低で最悪の目覚めだ。
頭の中には未だに夢の内容がこびりついていて、肺の中はぐるぐると淀んだ空気が渦巻いている。
肺だけでなく胸の中にも言いようのない不快感とぶつけ先のない苛立ちが根を張っていて、カーテンの隙間から入ってくる光が鬱陶しい。
深くため息をつきながら俯けば、さらりと流れ落ちてきた銀糸が視界に映り込んだ。
紫がかった銀髪。この世に生まれ落ちた瞬間からこの身に宿る色。
願掛けのために伸ばし、それなりに手入れもしてきた、褒められることも多いもの。
けれど、今はその色も鬱陶しくて、胸の中で渦巻く不快感を強めるもので、ぎりと強く歯噛みする。
褒められるのは悪い気はしない。確かに綺麗な色だろう。
でも――この色は。この銀糸は。この世に生まれ落ちた瞬間からルイシャを縛る一種の『呪い』でもある。
母と同じ色で生を受けていたら、こんな気持ちにならなかっただろう。
同じ薄葡萄色の髪で、同じ色変わりの目で――けれど、現実はそうではない。
目は母と同じ色を受け継ぐことができても、髪に宿った色は薄葡萄色ではなく紫がかった銀だった。

「……嫌な夢だな、本当に」
もう何度も繰り返し思ってきたことを改めて口に出し、己の髪から手を離す。
指通りの良い銀糸が指の隙間を通り抜け、さらりとした手触りを伝えてくる。
最低な気分になっている今はそれも苛立ちの一つになり、思わず小さく舌打ちが出た。
こんな気分のままで人前には出れない。出るわけにはいかない。
旅薬師ルイシャ・ノトゥイはいつも余裕のある、苛立ちを表に見せない人間なのだから。

「……海でも見て気分転換でもすっかァ」
瞼の裏に見えた景色を求めるまま、身支度を始める。
潮の香り、波の音、陽の光を反射する海面――自分自身に刻まれた本能が求め続けるそれを目にしたら、荒れた気分ももう少し落ち着いてくれるはず。
そんな思いに従って歩を進め、鏡の前に立つ。
磨かれた鏡の向こう側に立つ自分自身の姿を見つめて――はつ、と唇が動いた。

「……なあ、おふくろ」
それは、決して答えが得られぬ問い。

「あんたはどういう気持ちで、俺を見てたんだ?」
It is no use crying over spilt milk.
一つの真実を知ったあの日、確かにルイシャ・ノトゥイという何も知らなかった猫はもう一度死んだのだ。