RECORD
Eno.58 ミオリッツァの記録
白髪公と白髪の君
床に臥せった男は、すっかり老い耄れて見覚えのあるところがなかった。
自分に似せて脱色したという髪はかなり痛んでしまっていて、まるで枯草のようだ。
肌も荒れて皺は大地の谷の如く深く刻まれ、質素な服に包まれた体も酷く萎んでいる。
ベッドの傍らにあった椅子を引いてゆっくりと座ると、男は目を開けてオレを見た。
見覚えのある目だ。人懐こい子供のような、それでいて穏やかで優しい目。
「御出で下さったんですね、白髪の君」
「今はミオリッツァで通している。久しいな、テグルス」
「おやおや。そんな名になりましたか。書を書き直さねばなりませんね」
くつくつと苦しそうに笑いながら、男は体を起こす。
時とはなんということをするのだろうか、とオレは思う。
この者の身体はもっと大きく、剣を振る腕は澱みなく、足運びは軽やかだった。
まるで草原で遊ぶ犬のように、はしゃいで笑っていたこの者の記憶が確かにある。棚引くほどに長く伸ばした髪を、真似したいというそれだけの理由で脱色した時の笑顔も覚えている。妖魔に襲われ命ある者は死に絶えたと思われた村の中で、独り生きていた少年の顔を、オレはいまだにしっかりと覚えている。喜ぶ顔も怒る顔も、哀し気な顔も、楽し気な顔も。すべて。
時は、それらすべてを過去のものにしてしまう。今、ここにいるのは、老いたかつての少年だ。
「お前もすっかり偉くなったな。白髪公か、白の神が嫌な顔などしなかったか?」
「セラウニ様をなんだと思っているんですか、まったく。そんな顔していませんでしたよ」
「なんだ、奴と会ったのか。まあ、語り聞くお前の武功は讃えられるに値するものな」
「貴方に褒められると嬉しいですね、ミオリッツァ。小さい頃を思い出します」
「老人みたいなことを言う」
「もうすっかり老人ですよ」
また苦しそうに笑い、男は咳き込む。
乾いた咳に湿った音が混じるのが聞こえ、シーツに赤い飛沫が散った。
平安であれと律したはずの心はまた、ぐらりと揺らいでじくりと痛む。
咳が落ち着くと、男は手のひらの血を眺めながら静かに言う。
「―――セラウニ様には、騎士教団の吸収合併手続きでお世話になりました」
「オレを奉ったお前の騎士教団をか」
「ミオリッツァ、貴方が奉られるのを嫌ってこの世界から去ってから、もう六〇年が経つんです。空座の信仰は長続きしないものですよ」
穏やかだけれども、厳かに、男は語る。
六〇年の歳月は、少年を老人にするには十分な時間だったらしい。
「……すまないな、テグルス」
頭の中で考えを巡らせて、やっと出てきた言葉がそれだった。
何百何千何万と世々を巡り代々と語ってきたというのに、揺らいで痛む感情の前ではそれらも優位とは言えない。
もはや自分を最後まで信じてくれている、かつての少年の顔すら正面から見れない。
だというのに、ふっと鼻で笑ったような音がした。男が、笑ったのだ。
「謝らないでください。やっと貴方と再会できたのに、最後に見る顔が泣き顔では……おれが報われない」
「オレは泣いてなどいない。変なことを言うんじゃない」
「貴方は泣いているよ、ミオリッツァ。おれを助けたあの日だって、そんな顔をしていたじゃないか」
「お前は……、………ずるいなぁ」
「貴方は本当に、バカだなぁ、まったく。その在り様はさぞ御辛いでしょうに」
「……言うな。お前とそんな話はしたくない」
「ええ、おれもこんな話で終わらせたくはない。だからお願い事を一つ、良いですか?」
「分かった、言ってみろ」
「最後にほんの少し、小指の先ほどでいいんです」
くしゃりと皺だらけの顔で笑って、男は言う。
「おれに、祝福と加護の口づけをお願いできますか?」
なんだそんなことか、というよりも先に、身体が動く。
そっと彼の頭を両手で包み、額の髪を指先でかき分け、オレは彼の額に口づけを落とす。
ほんの少しの祝福と加護を齎す口づけを。祈りもなく詠唱もない、一見すればただの口づけを。
これで良かったのかと思いながら、オレは椅子に座りなおし、テグルスを見た。
喜びに欄欄と輝くその目は、見覚えがある。嗚呼、本当に、楽しそうな目だ。それがテグルスの目だ。
満足したように微笑んで、男は体を再び床に横たえる。
「ありがとう、ミオリッツァ。六〇年待った甲斐があった」
「オレの口づけなどに六十年も待つなど、お前は変わらず気色悪いな」
「それもこれも、貴方に救われたのが始まりですがね」
ふふふ、と楽し気に笑い声まで上げながら、男は続ける。
「死に顔は弟子たちに見て貰います。貴方は、貴方の旅路をどうかお続けください」
「………ああ、分かった」
言われるがままに立ち上がり、歩き、扉を開く。
扉を閉める直前に、言葉を紡ぐ。
「さようなら、大馬鹿者よ」
ゆっくりと、扉を閉める。
心は揺らがずともじくりと痛む。
けれども、歩む足には子細ない。
自分に似せて脱色したという髪はかなり痛んでしまっていて、まるで枯草のようだ。
肌も荒れて皺は大地の谷の如く深く刻まれ、質素な服に包まれた体も酷く萎んでいる。
ベッドの傍らにあった椅子を引いてゆっくりと座ると、男は目を開けてオレを見た。
見覚えのある目だ。人懐こい子供のような、それでいて穏やかで優しい目。
「御出で下さったんですね、白髪の君」
「今はミオリッツァで通している。久しいな、テグルス」
「おやおや。そんな名になりましたか。書を書き直さねばなりませんね」
くつくつと苦しそうに笑いながら、男は体を起こす。
時とはなんということをするのだろうか、とオレは思う。
この者の身体はもっと大きく、剣を振る腕は澱みなく、足運びは軽やかだった。
まるで草原で遊ぶ犬のように、はしゃいで笑っていたこの者の記憶が確かにある。棚引くほどに長く伸ばした髪を、真似したいというそれだけの理由で脱色した時の笑顔も覚えている。妖魔に襲われ命ある者は死に絶えたと思われた村の中で、独り生きていた少年の顔を、オレはいまだにしっかりと覚えている。喜ぶ顔も怒る顔も、哀し気な顔も、楽し気な顔も。すべて。
時は、それらすべてを過去のものにしてしまう。今、ここにいるのは、老いたかつての少年だ。
「お前もすっかり偉くなったな。白髪公か、白の神が嫌な顔などしなかったか?」
「セラウニ様をなんだと思っているんですか、まったく。そんな顔していませんでしたよ」
「なんだ、奴と会ったのか。まあ、語り聞くお前の武功は讃えられるに値するものな」
「貴方に褒められると嬉しいですね、ミオリッツァ。小さい頃を思い出します」
「老人みたいなことを言う」
「もうすっかり老人ですよ」
また苦しそうに笑い、男は咳き込む。
乾いた咳に湿った音が混じるのが聞こえ、シーツに赤い飛沫が散った。
平安であれと律したはずの心はまた、ぐらりと揺らいでじくりと痛む。
咳が落ち着くと、男は手のひらの血を眺めながら静かに言う。
「―――セラウニ様には、騎士教団の吸収合併手続きでお世話になりました」
「オレを奉ったお前の騎士教団をか」
「ミオリッツァ、貴方が奉られるのを嫌ってこの世界から去ってから、もう六〇年が経つんです。空座の信仰は長続きしないものですよ」
穏やかだけれども、厳かに、男は語る。
六〇年の歳月は、少年を老人にするには十分な時間だったらしい。
「……すまないな、テグルス」
頭の中で考えを巡らせて、やっと出てきた言葉がそれだった。
何百何千何万と世々を巡り代々と語ってきたというのに、揺らいで痛む感情の前ではそれらも優位とは言えない。
もはや自分を最後まで信じてくれている、かつての少年の顔すら正面から見れない。
だというのに、ふっと鼻で笑ったような音がした。男が、笑ったのだ。
「謝らないでください。やっと貴方と再会できたのに、最後に見る顔が泣き顔では……おれが報われない」
「オレは泣いてなどいない。変なことを言うんじゃない」
「貴方は泣いているよ、ミオリッツァ。おれを助けたあの日だって、そんな顔をしていたじゃないか」
「お前は……、………ずるいなぁ」
「貴方は本当に、バカだなぁ、まったく。その在り様はさぞ御辛いでしょうに」
「……言うな。お前とそんな話はしたくない」
「ええ、おれもこんな話で終わらせたくはない。だからお願い事を一つ、良いですか?」
「分かった、言ってみろ」
「最後にほんの少し、小指の先ほどでいいんです」
くしゃりと皺だらけの顔で笑って、男は言う。
「おれに、祝福と加護の口づけをお願いできますか?」
なんだそんなことか、というよりも先に、身体が動く。
そっと彼の頭を両手で包み、額の髪を指先でかき分け、オレは彼の額に口づけを落とす。
ほんの少しの祝福と加護を齎す口づけを。祈りもなく詠唱もない、一見すればただの口づけを。
これで良かったのかと思いながら、オレは椅子に座りなおし、テグルスを見た。
喜びに欄欄と輝くその目は、見覚えがある。嗚呼、本当に、楽しそうな目だ。それがテグルスの目だ。
満足したように微笑んで、男は体を再び床に横たえる。
「ありがとう、ミオリッツァ。六〇年待った甲斐があった」
「オレの口づけなどに六十年も待つなど、お前は変わらず気色悪いな」
「それもこれも、貴方に救われたのが始まりですがね」
ふふふ、と楽し気に笑い声まで上げながら、男は続ける。
「死に顔は弟子たちに見て貰います。貴方は、貴方の旅路をどうかお続けください」
「………ああ、分かった」
言われるがままに立ち上がり、歩き、扉を開く。
扉を閉める直前に、言葉を紡ぐ。
「さようなら、大馬鹿者よ」
ゆっくりと、扉を閉める。
心は揺らがずともじくりと痛む。
けれども、歩む足には子細ない。