RECORD

Eno.171 『薬煙』のルイシャの記録

When one door shuts, another opens. 1


 
 ルイシャの師の一人――薬師としての師は、一言で表現すると不可思議な人間だ。

 生まれ育った町から連れ去られ、見知らぬ町の路地裏で動けなくなっていたルイシャを発見した人物。
 こちらがどれだけ敵意を向けても敵意や悪意を返さず、ただひたすらに手を差し伸ばしてくる奇妙な人間というのが、最初の印象だった。
 ルイシャの身を内側から焼いていた熱とその正体が明らかになったのも、彼女が状態を診てくれたおかげだ。

 何故こんなにも病に詳しいのか、薬について詳しいのか。
 その理由が薬師であるからの他に虚弱すぎていつ命を落としてもおかしくない身体をありとあらゆる薬で延命し続けているからという規格外すぎる一面もあるが。
 人間は簡単に狂うほど脆弱な生き物だと思っているが、正直、師はその中に当てはめてもいいのかわからない。
 あれは脆弱も強靭も飛び越えたまた別の何かだろう。なんであんな生きているのが奇跡と言いたくなるぐらいにひどい身体の状態で息をし続けていられるんだ。
 過去にルイシャが師について尋ねてみたとき、彼女の相棒はものすごく苦い顔をして。

「あれは常識を飛び越えた生き物だと思え、人間だけど人間じゃねェ生き物だからな。あれは」



 だなんて言っていたが、本当にこちらが知る常識を飛び越えた人間であるような気がしてならない。
 本当になんなんだ。あの妙なしぶとさは。殺しても死ななさそうな人物を思い浮かべろと言われたら、ルイシャは真っ先に薬師の師を思い浮かべる自信がある。




 彼女はルイシャにさまざまなことを教えてくれた。
 読み書きから始まり、薬草や薬に関する知識、調合の仕方、計算や交渉のための話術――他にもいろいろなことを。
 学び舎に通うことができなかったルイシャが読み書きも計算もできるようになり、薬師として、商人として生きていけるようになったのは彼女のおかげといっても過言ではないだろう。
 貴族を相手にするときに使えるマナーや注意点まで教えてもらったときは、本当に何者なのか驚いてしまったが。

「……なぁ。あんた、なんでこんなことまで知ってるんだ?」


「これでも伯爵令嬢なので。今はもう家が没落しましたので、元と表現したほうが正しいですが」



 興味本位で尋ねてみた結果、さらっと告げられたことを前に、思わず二度見三度見してしまったのは仕方ないと思う。
 誰が思うか。元とはいえ、伯爵令嬢――いわゆるお貴族様だったなんて。




 また、彼女は善人であるとも悪人であるとも言い切れない人だった。
 ルイシャに対して明確な悪意を向けたことはない。自身の相棒に対しても言わずもがな。
 けれど、ルイシャに薬師としての教育を施すとき――ルイシャが毒や『特別』な薬に興味をもったら人を助ける薬だけでなくそういった薬の知識も与えてくれた。
 まるで『何も知らないことが恐ろしい』と感じているルイシャの心を見透かしているかのように。
 裏の世界でも通じる知識を授けるとき、彼女はいつも決まって口にした。

「使い方は間違えないように」


「これに頼るときは上手にやりなさい」


「そして、覚悟ができるまで実践は避けなさい」


「ルシィ。あなたがこれらの知識を使うときは、陽のあたる場所に戻れなくなってもいいと覚悟ができたときのみと心得なさい」


「これらの知識は人を害する知識であり、人を害するということは他者から恨まれるということですから」



 一本、二本、ルイシャに鎖をつけるが、その鎖を解くための鍵はルイシャ自身に握らせる。
 人を害する手段を徹底して教えないのではなく、使い所を間違えないように言い聞かせ、学びたいというルイシャの思いを優先する。
 危険な知識を徹底して与えるのではなく、与えたうえでどう使うのかはルイシャ自身に選ばせる――ルイシャが知る大人とはまた少々異なるその姿は、ときに困惑を与えるものだった。
 どうして止めないのか、何故危険性がある知識まで教えてくれるのか。疑問に思うのが抑えきれなくて尋ねたとき、彼女は白く濁って光を失った両目にルイシャを映して柔らかく笑った。

「知識は力になりますから」


「ルシィ。今のあなたは知識に対して飢えている状態です」


「喰らいなさい。貪りなさい。そして己の血肉に変えなさい。今のあなたにとって、知識は何よりの武器になる」




「――でも、忘れてはいけませんよ。知ることは、ときに毒を喰らうことでもあるということを」



 両手でルイシャの頬を挟むように包み込み、もちもちと遊びながら師はそういった。
 そのときは師の言葉の意味がいまいちわからなかったが――今ではよくわかる。
 光を失っているはずの両目で世界を見透していた人だ、ルイシャの先に待ち受けるものも察していたのだろう。


「そうしていつか、あなたが己の牙を届かせたいと思う人物が現れたら」


「あなたが生かしておくことも赦すこともできないと感じる人物が現れたら」


「その人物を喰らい殺すと決めたときは」


「そのときは――覚悟をもって、喰らった知識を活用し、その対象を喰い殺しなさい」




 もしくは、彼女自身もルイシャが味わったものと近い悪意を味わったことがあったのかもしれない。
 だって、結局彼女の下を離れるときまで――離れてからも、聞けなかったけれど。
 あのとき聞いた彼女の声は。



 苦痛と憤怒を知った者の声をしていたのだから。