RECORD

Eno.18 マネス・ミダスの記録

そして神は動き出す

黒の不死者、ヴェルドン・ヴェルドナックは、恐怖に固まり、息吹の一つも吐けなくなっているノヌムルアの肩を軽く叩いてやった。
それで、なんとか平静を取り戻したのだろう。息を強く吸い込み、そのあと咽ていたが、もう大丈夫だと思い、
肩に置いた手を離した。

あの怯えようを、誰が責められようか。
己の仕える神――黒の女神であるヨルウルが、神の中でも随分と人に入れ込み、甘いからこそ誤解しがちであるのだが、
本来"神"たる上位者は、恐ろしいものだ。

彼女とて、偉大なる八神の一柱であり、レブン・レヴンがあの凶行に走った際には、普段通りに振舞い、
面白ければそれでいいという態度を表面上では見せていたが、内心では腸が煮えくり返っていて、
己が動き、"全体"の粛清に走りかけたのを、腹心である狼憑きの騎士クーロイ・クリストロイに言葉で止められていたのだ。

己の可愛がっており、信を置いていた教会騎士団の騎士達の忠誠と信仰が、
腐敗によって穢され、巻き込まれていたのもあるが、何より、信じていたものに裏切られていた事が、
余計に堪えていたという所だったのだろう。

人に近しく、関わり、時に見守り時に触れ合うという姿勢でいる黒の女神ヨルウルですら、
神たるその権能を振るえば、大多数の人々を文字通り虐殺できるだろう。

では、八色の大地を治める神々、その主神たるものはどうかと言えば――。

『なぁ、シルバリア。
 お前の悪い癖だ。未知なる事象、新たな発見、それが見えるのであれば、
 人の心など推し量らず、神の秘密にすら手を入れようとする』

「それは、今更でありましょう。
 まして、シウェブの不始末を自ら処断しておきながら、
 貴方がそう動くという事に、興味を持たないなど、
 それこそ、私ではない」

道化の仮面をつけた、ノヌムルアと同じぐらい――自分よりも遥かに小さい背の男。
神の姿としては、余りにも弱弱しい、威厳も無い姿だというのに、
感じる重圧は、目の前で、灰雷に貫かれている巨大な水龍――青の神、シウェブのそれを遥かに超えるもの。
その身の背後に映るは、天高くそびえる、灰色の巨人である。
それに対して、まるで怯える事もなく、気負う事もなく、世間話を始めるかのような口調で、
嬉々として話を引き出そうとするこの老人――銀の不死者、シルバリア・セルヴィアも、異常な人物だと言うべきか。

好々爺のように振る舞い、人当たりも良く、慕う者たちは数多いが、
"あの"銀の女神、リウリブに選ばれ、以後6000年以上もの永い間、不死者として君臨し続けている。

戦であれば、己が万に一つとて遅れを取るなどとは思わないが、
それ以外の場所では、全くもって歯が立たぬであろう食えぬ老人が、シルバリアであった。

『よく言う。
 まあ、いいだろう。そこまで知りたいなら、
 俺としても、別に今回は話しても構わんと思っていたからな』

「ほう、それはまた随分とこの度は寛大ですな」

『おお、そうだろう?
 何、いずれお前たちにも言わねばなるまいと思っていた事だ』

それにだ、とライゼニが、笑う。

『お前も面白いと思ったからこそ、気になったのだろう?
 創壁神という、創造主――神の"物語"から逃れようとする者たちをな』

「ほう」

シルバリアは、その言葉に、目を光らせた。
灰の神ライゼニが契約をしようとしている人物――ヴェセンスが異世界の住人であると言う事は、
既に掴んでいたのだろう。
創壁神の物語から逃れた魂。それも、その世界で培った技術と知恵を持つ者たち。
道化の仮面の向こうで、ライゼニは確実にシルバリアの興味を掻き立てる言葉を選んでいた。

「貴方は本当に、面白いものをお見つけになられる」

シルバリアの声音にあるのは純粋な好奇心、そして、未知なるものへの探究心だけだった。

『警告するつもりはないのか? 
 世界の境界を超えて来る者たちが、この八色の大地に何をもたらすか──』

「――それこそが、この目で確かめたいものです」

この老人の、仮面の下の微笑みには、どこか危うい色が混じっていると見えなくても分かる。
6000年の時を生きる不死者でさえ見たことのない、未知なる存在。
その魂が、この世界に、八色の大地に、どのような変革をもたらすのか。
その危険性を考えれば、少しでも警戒心を残しておくべきものだと、そう考えるのが当然だと言うのに。
銀の不死者、シルバリアは意にも介していない。

『ははは。 やはりな』

ライゼニの笑いが、響きわたる。

『お前も結局、面白い"物語"と"人"を求めるからな。
 だからこそ、リウリブはお前を選んだのだろうよ』

その言葉に、シルバリアは何も答えなかった。
ただ、その瞳の奥に、幾千年もの時を超えて色褪せない探究心が、
静かに、しかし確かな光を宿していた。

「しかし、シウェブの方は、好ましくなかったのですな」

『当たり前だろう』

黒の不死者、ヴェルドン・ヴェルドナックは、不愉快な気持ちになっているであろう己の感情を抑えていた。
青の神であるシウェブの話を聞く限り、己はそれを否定しようなどと思えなかった。
喜ばしいとすら思える、確かな変化だったはずなのだ。
それを、主神たるライゼニは一顧だにすることなく、余計なものだと断じた。

『俺たちは神だ。
 神である俺たちが揺れる事は構わん。
 それもまた、変化の兆しであり、物語を変え得る要素となりえる』

『だが、あのバカは代価を捻じ曲げた』

『我ら"神"が、受け取るべき代価を奪わずに、女一人を許した』

『女一人が身を差し出せば、それで収まったものを』

これが、神だ。
傲慢なるもの。神そのもの。それが、ライゼニであった。

『それにな』

ライゼニは、灰色の巨人の影が揺らめく中、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

『創壁神とやらの"物語"は、完璧すぎる。
 まるで、人形劇を見せられているようなものだ』

「そうですな。だからこそ──」

シルバリアは、意味ありげな微笑みを浮かべる。

「そこから逃れようとする者たちの中に、
 きっと面白い"狂い"が生まれているはずです」

『ほう?』

「完璧な物語から外れようとする者は、
 必ず何かを得ているもの。
 それが技術であれ、知恵であれ、
 あるいは──」

『物語を壊す力か』

ライゼニの声には、明らかな愉悦が混じっていた。

『だからこそ、シウェブのように自分勝手な解釈で代価を歪めるのとは違う。
 これは、もっと本質的な"物語"の歪みというわけだ』

シルバリアは黙って頷いた。
この老人にとって、未知なるものへの探求は、
己の生の証であり、6000年もの時を生きる理由でもあった。
それはある意味で、己もまた"物語"から逸れようとする存在なのかもしれない。

「創壁神の世界では、全てが定められた通りに動く。
 しかし、この八色の大地では──」

『ああ、そうさ』

ライゼニは、道化の仮面の下で確実に笑みを浮かべている。

『物語は、誰にも分からない方向へ歪んでいく。
 お前も、それを見たいんだろう?』

この会話を、ヴェルドンは固唾を呑んで聞いていた。
神と不死者が交わす言葉の端々に、
この世界の在り方すら揺るがしかねない何かを感じ取っていた。

『それにな』

『異界の神たるものが、俺の契約を破ったその時、
 どうなるかも見たいだろう?』

灰の巨人が、動いた。
そして、世界もまた動くのだと、確信していた。