RECORD
Eno.18 マネス・ミダスの記録
そしての舞台の幕は上がる
「マネス」
「……貴様から聞きたい事がある、などと言うから招いたのだ。
さっさと言え」
「ならば遠慮なく、聞こう。まずは――」
殺気にも似た空気が満ちていた。
豪奢でありながら、下品さを感じさせぬどころか、高潔な気風すら漂わせる応接間。
胃にちくりとした痛みが走るのを感じながら、灰の大神官アブア・アブゥアは、
その中で、金の巨人ともいうべき大男の豪傑と、黒の巨人とも言うべき大英雄に挟まれる席で、
ただじぃっとしていた。
金の都市国家『ゴウルドール』、その実質の主である『昏き黄金』たるマネス・ミダス。
通常の人間種を超える背丈――それこそ、オーガ種やハイオーク種の方に近い肉体を持ち、
黄金の鎧に身を包む男は、こちらに獅子が如き目を向けていた。
その隣に控えるは瞬く間に妖魔討伐で名を挙げた、金の不死者の妻エリス・リリス。
美しい青く艶やかな髪を伸ばし、白と金色を基調とした衣服――スリットのあるドレスと甲冑を合わせたものを身に纏いながらも、
マネス・ミダスの膝元に自らの手を撫でまわすように置きながら、ご機嫌な表情で、彼の肩に寄り添っている。
よりにもよって、あの男にどうしてそうも心許した状態でいられるのか――男の趣味が酷くねじ曲がっているのか、そういう趣味なのか。
そのどちらかしかありえないだろうな、という顔で一瞬だけ目を向けただけで、それがバレたのか気配で察されたのか。
穏やかで心地よさげであった赤い瞳が、こちらを射殺さんばかりの――只人なら二、三人は殺せそうな視線が飛んできたので、
慌てて目を逸らした。
そうして目を逸らした先には、穏やかな表情で、赤髪を軽く揺らしながら待つ一人の女性。
黒の教会に属するものが纏う修道女服ではない、別世界からシンプルなデザインのもの――それにしては、スリットが奥深くまで入っているが。
確かな若さを感じさせるというのに、人を包み込むような母性というか、穏やかさというか、
そういう人を引き寄せるような女性である事には違いない。
これもまた奥さんになっていたら一生懸命尽くしてくれそうだし、良い人そうだなあなんて目で見ていたら、
一瞬だけ『黒の大英雄』ヴェルドン・ヴェルドナックが、マネスと話していたはずなのに、
こちらにおっかない気配を向けてきたものだから、慌てて意識を逸らした。
「ヴェルドンさん、話に集中しないと」
「む……む。
……すまん、メレナス」
「……人の前で……いや、いい。
とりあえず、話を続きに戻すぞ」
それを見た黒の英雄の妻――八色の大地にやってきた、新たな戦神アクレスに仕えていると言われている女性、メレナスが、めっと窘め、
何か、からかうつもりで言いかけたマネスが、自らの太ももに手を這わせて、悪戯じみた目線を向けるエリスを見て、
その先の言葉を閉じた。
それからは、通常通りの話し合いが始まっている。議題は、当然決まっている。
箱庭とされる世界――そこからの新たな来訪者、そして大量移住を行った涙清教。それと関りを持つ"ただの一教徒"の女性、その2つが話題に上がっていた。
涙清教については、灰の大神官たる己も、先ずは他を知る事からの理念――灰に仕えるものとして、"知ることは、断ずることに先立つ"との考えがあった。
裁きと契約を司る灰の色を持つ者として、知らずしてその価値を、罪を、未来を断ずることは出来ぬ。故に、真っ先にこちらに改宗した元信徒から話を聞いたものだ。
そこで聞いた水の大精霊たる。ル・ティアーの話は興味深く、彼らの置かれていた状況にも理解を示すことは出来た。
聞いているうちに、彼らの決断も理解できたし、よくぞこの八色の大地を選んでくれたと、誇りに思う所もある。
八色の大地は、異来人――異世界からの来訪者に寛容である。一個人でもそれなりの成果や信仰を認められれば、他世界から行き来できる割符などを与えられる。
最近で言うなら、灰の信徒のアシュ・テフラース――テフラース家の忌子が、かなり無茶なやり方だったが、妖魔の隊長級の首を挙げて一人分の割符を手に入れていた。
それから、少し前には緑の小神にあたる、元大妖魔たる黒祭鼓(コクサイコ)が、複数名を招いていたはずだ。
異来人に寛容なのは、そういう土壌なのと――この世界に来て、妖魔の汚染する大地でない限り、原初の八神という抑止力が常に動いているからではあるのだが。
つまるところ、この世界の守護者は多くあれど、その中でもやはり確固たる柱とされているのは、
原初の八神と選ばれた8人の不死者になるのだが。
――先日の件を思い出すと胃が痛くなる。
神体まで顕現させた黄金の戦巨人、金の神ゴルサンと、白輝の六翼を広げた白の神セウラニが、灰の巨神ライゼニと目の前で激突した時は、もはや言葉の一つすら出なかった。
空間ごと封じられていた神殿は、それでも尚、破壊の奔流を留めきれなかった。
天穹は崩れ、星々が呻きを上げて墜ちたかのような跡。
大地は断裂し、咆哮する獣のように口を開けて割けた。
そこまでの争いとなったというのに、平然と主たる灰の巨神ライゼニは、容易く二柱の神々を制圧していたのだ。
しかも、その争いの原因が、また信じられぬ事に、"涙清教のただの一教徒"と来ていた。
こちらの世界に来たわけでもない、ただの異世界の宗教である涙清教の一教徒たる彼女への扱いに対して、
金の神が激怒したうえで、白の神もそれに乗ったという事なのだから、どういう事になるのかともなろう。
まして、青の神シウェブも彼女との関りによって、ライゼニの怒りを買い、灰雷によって全身を貫かれて、
今は神体ごと封印されている身である。
そんな問題を引き起こしている女について、己は何も知らないし、他の大神官も知らないときたものだ。
はっきりと言ってしまえば、それは異世界に知らぬ間に爆弾が出来ているようなものである。
その爆弾がいつ爆発してもおかしくないという可能性があるとなれば、そうもなろう。
――というより、その話が全く届いていないし、そんな特級の危険なものがあるなど知りたくはなかった。
そのうえ、それが己の信じる神ライゼニが、巫女とした挙句に記憶を消したのが発端であるなどと。
灰の大神官たるアブア・アブゥアが、わざわざゴウルドールまでやってきたのは、それがあったからだ。
黒の不死者ヴェルドン・ヴェルドナックと、金の不死者マネス・ミダスは、二人とも異世界であるフラウィウスに行った経験があり、
例の、ただの一教徒に接触している。
であれば少しでも情報が聞ければ良いとして、こうしてやってきたのだ。
本来であれば、主であるライゼニが直々に選んだであろう、ヴェセンスという男から聞くべきだとは思うのだが、
恐らく彼自身もライゼニから話を振られているであろうという事と、元異教徒でかつ新入りであるヴェセンスという男に話を聞きにいくというのは、
灰の大神官たる立場があるゆえに面倒だというのもある。
戦や鎮圧など、武としての右腕が不死者であれば、政と祭について支えている大神官は左腕ともいうべき存在であり、
不死者と同じように軽々しく動いて良い立場ではない。
――ないはずなんだがな。
不死者の現状を考えると、溜息を吐きたくもなる。
偉大なる星読み、青の星海とも呼ばれる人格者、青の不死者ゼェーレ・ツェーンはシウェブと共に連座する形で実質の軟禁状態。
金の不死者マネス・ミダスは結果的には良かったとはいえ、狂った状態で異世界へと渡航。
灰の不死者ウェプトン・ウェブトンは一時は脱走し、それを捕らえに黒のヴェルドンが派遣され捕縛。
銀の不死者シルバリア・セルヴィアは未だに何を考えているか分からないと、半数に不安を持つばかりときた。
「ライゼニは何を考えている?」
「私も、それを聞きたい所だ。
……原因に関しては、私にも思いつく部分はあるが」
「あー……それについては、私から説明させて欲しい、のだが……」
そんな事を考えている間に、話は進んでいた。
青の不死者である、ゼェーレ老の謹慎処分についての話から、
渦中の涙清教の一教徒――シアーナ・ラナスを巫女として選んだ理由を。
故に、己も口を開かねばならない。
「まあ、だろうな。
説明してもらおう」
「ええ、私も話を聞きたいと思っていました、アブア殿。
この馬鹿……堅物と話していても、あまり話が進まないもので」
「マネスさん?」
「……失礼。メレナス殿、言葉が過ぎました」
むすっとした表情の、黒のヴェルドンの妻であるメレナスに見つめられれば、詫びの言葉を一つ話す。
これだけでも、あの『昏き黄金』が随分と丸く――いや、前妻が生きていた時に近い状態にまで戻っていると分かるのだ。
現妻のおかげなのだと思えば、やはり他の世界から異来人を招く価値もあるものだとは思うが、それが原因で発生した問題もあるのであれば、
また、話は別だ。
歴代最強の黒の不死者と、実力だけで言うなら第二、三位を維持し続ける金の不死者が、こちらへと目を向ける。
その威圧感に耐えながら、ゆっくりと口を開いた。
「ライゼニの考えは、正直に言えば『ただ、その方が面白い』から」
「それ以上でも、以下でもない、のだと思う」
その言葉を告げた直後だった。
大気が、圧し掛かるように重みを増し、圧となり、襲い掛かってくる。
大地が低く唸りを上げ、確かに、震え、揺れていく。揺れるというのは、比喩ではない。
膨大な魔素が一瞬漏れ出して、確かに、屋敷が揺れた。
「ヴェルドンさん、抑えて。
……怒るのは分かるけど、ね?」
「……すまんな、メレナス」
それが、ただ一人の英雄から漏れたものだと、誰が思っただろうか。
体中から溢れ出す冷や汗を、何度か息を吐いてから、ゆっくりと自らの手拭いに手を伸ばし、それを拭く。
指先が落ち着かず、ぶるぶると震えていたが、誤魔化すように、力を込めた。
「エリス、座れ」
「ふふ、御免なさいね? 悪気はないと知っていても、ついね?」
平静そのものであったマネス・ミダスに対して、
瞬く間に立ち上がり、己の腕を剣へと変化させて、黒の不死者であるヴェルドンに、既に喉元へと突きつけていた。
それだけの――重圧感、威圧感があった。己の前にいたのが、"人であったか"を一瞬で忘れ飛ばすほどの。
しかし、言葉は続けねばならない。
「我が主ライゼニは、それが最も面白く、最も良いと思われた。
故に、そうしたのだ」
「それで、一人の女を壊したのか? 面白いというだけで。
それを最も良いなどとは、冗談でも出来の悪さが酷過ぎて、笑えんぞ――アブア」
目線が合う。呼吸が奪われる。
黒の甲冑から伸びる、ただ一つの腕。
理屈もなく、確信だけが芽生える。この男は、己を殺す事に対して、造作の一つもいるまいと、本能で理解した。
身体が、抗えぬまま竦む。妖魔の王を"枝"としか見なかった者。それが、黒の不死者――ヴェルドン・ヴェルドナックなのだ。
それを理屈など抜きに身体で覚えさせられた。
「我が主も考えが、あるの、だと」
息が詰まる。上手く、言葉の返事ができない。
「ヴェルドン。お前がそこで感情を苛立たせてもどうしようもないだろう。
……アブア殿。私はシアーナ・ラナスを……例の女の教徒を八色の大地に誘った身でもあるから、何となくは分かるが」
その視線を遮るような言葉を向けられ、黒のヴェルドンの目がそちらに向く。
それだけで、重圧から解き放たれて、大きく息を吐いた。
言葉で言う割に、複雑な表情を浮かべたままの金のマネス・ミダスは、溜息を吐く。
それは、過去の己の不始末を思い返したような、苦竜草をうっかり嚙み潰したような表情であった。
「涙清教の教え、そして彼女自身の意思を持ってして、私は誘ったが……。
まあ断られた事はともかく、その時点で神々が興味を抱いていたのは事実だ」
息を吐いたマネスに対して、
今度はヴェルドンの方が目を向けている。
「本来であれば、このマネスの馬鹿とこじれなければ、
ヨルウル様の元に派遣される予定だったのだがな。
……とはいえ、彼女が来るかどうかは、選択次第ではあったから、それもまた違うか」
同時に、あまりにも聞き逃せない言葉に、止めざるを得なかった。
「……待ってくれ、その時から彼女に神が興味を抱いていたという事は、
その時から神々は彼女に接触を?」
思わず、身を乗り出していた。
たかが、異世界の異教徒一人に、既に神が接触していたとなれば、随分と話が変わってくる。
「知らんのか?」
「……知らないだろう。ライゼニがそれを言うとも思えん。
シウェブ様の顛末の前から、ゴルサンもセウラニ様も、ヨルウル様も関わっていた」
アブア殿が苦労されることを楽しみにしているような節もあるだろう、と金のマネス・ミダスが付け足した。
その言葉に、大きな大きな、それはもう部屋に響き渡る溜息を吐く。
「待ってくれ。理解が追い付かない。
その異教徒の女、シアーナはなんだ? 夜魔や夢魔の王をも超えた、神に届きうる魅了の術でも使えるのか?」
「そんな術は持っていないが、少なくとも関心を引かれたのは事実だ」
黒のヴェルドンの、端的すぎる言葉を補足するように、
金のマネスが続けて言葉を足した。
「シウェブ様に至っては、知っての通り巫女に――いや、大神官が言うには第一の巫女にしてもいいと思っていたようだがな」
「待て待て待て待て。
シウェブ様が偶に市井に出て、女や男を抱いているのは有名な話だが、
第一の巫女だと?」
次々と、厄介事になりそうな話しか出てこない。
胃にきりきりとした痛みを感じるだけではなく、頭すら痛くなってくる。
そんな女を灰の巫女にするなどと、どう考えても青の神シウェブに対する、宣戦布告とまではいかずとも、露骨な牽制ではないか。
そして、灰の神ライゼニが"人間種"を抱くなどと言う事はあり得ない。
青の神シウェブや黒の神ヨルウルのように人に近すぎるわけもなく、金の神ゴルサンのように人と神の間を保つわけがない。
主たる灰の神は、『物語』としての面白さと『世界の変化と維持』、相反するそれを求められるのだと、
傍にいる己が何よりも知っていた。
――正直に言えば、白髪の君、ミオリッツァ老に相談したい。
もしくは、灰の神ライゼニの意図を理解できる他の者にも。
今回の件、元々穏健派であるはずの、あの金の神ゴルサンが激怒したという時点で覚悟していたが、
思った以上に根が深いのかもしれない。
涙清教の者たちをまとめて招き入れた事についてもそうだが、灰の神ライゼニは、"物語"だけではない。
明確な意図を持って動いているとしか思えない。
逆に、青の神シウェブの入れ込みようは、本気にも等しい。ライゼニが動いた時点で、まさかとは思っていたが。
第一の巫女――空席となっていた巫女長という事になれば、それは大神官の次席にも等しいものだ。
確かに、神自らが選び巫女や神官となったケースはある。こちらの世界の美点だと思っているが、所謂余所者が急に高い地位につけられたとて、
それを妬むものは少ない。
妖魔という脅威にあって、実力主義かつ団結の意思が必要というのが、貴族や民、商人、亜人や魔族に至ってまで周知されている。
だからこそ、余計に困惑するのだ。
「なぜシウェブ様は、それでその教徒を連れ帰られなかった?
連れ帰り、第一の巫女としても何も問題はなかっただろう。
神の寵愛を受けたのであれば、それは、もはや決まったようなものではないか」
異教徒であれ、そこまで青の神シウェブが気に入ったのであれば、問題はないはずだ。
そして涙清教の者であれば、海の神でもあるシウェブを受け入れるのは早かった。
改宗者も7人ほどいるという話も聞いている。そして、彼らの崇める大精霊にも考えは近い。
ともすれば、それは普通の道を歩んでいては手に入らぬ名誉であるとすら言える。
それを拒んだのか、それとも青の神シウェブに思う所があったのか。
――いや、どちらかと言えば、シウェブの方に何かあったのだろう。
神の命を拒むことなど、あり得ないし、不可能なのだ。
まして、彼らは神の寵愛をよく知っている。『この世界や実際の神』と遭遇し、よく知っている。
であれば、それに従うしかないのだ。喜びからであれ、諦めからであれ、それを受け入れざるを得ないのが、只人であった。
だが、シアーナ・ラナスという異教徒はシウェブの巫女にならず、ライゼニの巫女となった。
ライゼニが憐れむなどあり得ないとすれば、ただライゼニに利があるから、そうしたとしか考えられない。
シアーナという女がシウェブの元に行くのを拒むために、ライゼニ側についたなどとも思えず。
「――シウェブ様が代価を求めなかった話があったが、それか」
青の神たるシウェブが代価を捻じ曲げた上に、結局異教徒を――シアーナ・ラナスを、巫女にすらしなかった。
そこに事は発しているのか、と推測がつく。
アレについては神たる役目を果たさなかったと、ライゼニが激怒していたのを覚えている。
その問題が、異教徒の女絡みとまでは知らなかったが。
いつの間にか、考える事に熱中し、机を叩きながら考えを述べていた。
それを黙って、二人の不死者が聞いて、その妻たちも時折立ち上がり、すっかり空になった器に新たな飲み物を入れて持ってくる。
つまり、シアーナ・ラナスは利用価値があるゆえに、確保されているというのは間違いない。
「シウェブ様にとって、恐らく特別な女なのだろうよ。
だが、我が主ライゼニはそのような事は考えまい。
物語としての面白さと、この世界の『維持と発展』にのみ、眼を注いでいるのだから」
シアーナ・ラナスは、その面白さを買われたのだ。
彼女自身を舞台装置に祭り上げて、物語が、世界がどう動くか、それだけのために。
「我が主は、そういう神なのだ。
……人のように見えているだけの、得体の知れぬ、されど偉大なる『神』なのだ」
結局のところ、自分たちは神々が紡ぐ"物語"という名の大河の、岸辺に座すに過ぎない。
ただ、その物語の主役が、ほんの一滴の涙に過ぎぬ異教徒であった。
そして――その一滴の波紋によって世界の形は、すでに静かに、確かに、変わり始めていた事に気づき始めた。
静寂が、部屋を支配していた。
何も発せられぬまま、ただ、器の底に残った光の揺らめきが、ゆらゆらと、己の顔を歪ませていた。
気づけば、誰もが沈黙していた。ヴェルドンも、マネスも、彼らの伴侶すらも。
それは議論の終わりではなく――言葉の続きが、誰の口からも生まれぬという、妙な均衡だった。
「いずれにせよ、調べねばならん。
シアーナ・ラナスという女を、ライゼニが何をもって、それをしたのかを」
それに対して返る声はなく、ただヴェルドンの瞳が、再びこちらを射抜くように向けられた。
そこには怒りではない、理解と同意に、鋭さを含めた目線だった。
「アブアさん」
それまで黙していたメレナスが、そっと前へ出る。
赤髪が揺れ、その奥から、何処か寂しげな微笑が浮かんだ。
「あなたが信じる灰は、決して無意味ではないわ。
けれど、そうね。神々の裏側、"灰の向こう"にあるものを見ることも、時には必要なのだと思う」
それは慰めではなく、忠告でもない。
ただ、物語の裏側を覗いた事がある者からの、等しく差し出された言葉だった。
そうして、誰かが、重い息を吐いた。
「いずれにせよ、ライゼニは舞台を用意している。
――後は、誰がそこで踊り始めるかだろう」
それはマネスの声だったか、ヴェルドンの声だったか。あるいは、もっと別の何かの、囁きだったのかもしれない。
静けさのなか、再び杯に注がれる、淡い香のする液体の音だけが響いた。
それが終わりの合図か、或いは始まりの号砲であると気づいたのは――もっと後のことだった。
「……貴様から聞きたい事がある、などと言うから招いたのだ。
さっさと言え」
「ならば遠慮なく、聞こう。まずは――」
殺気にも似た空気が満ちていた。
豪奢でありながら、下品さを感じさせぬどころか、高潔な気風すら漂わせる応接間。
胃にちくりとした痛みが走るのを感じながら、灰の大神官アブア・アブゥアは、
その中で、金の巨人ともいうべき大男の豪傑と、黒の巨人とも言うべき大英雄に挟まれる席で、
ただじぃっとしていた。
金の都市国家『ゴウルドール』、その実質の主である『昏き黄金』たるマネス・ミダス。
通常の人間種を超える背丈――それこそ、オーガ種やハイオーク種の方に近い肉体を持ち、
黄金の鎧に身を包む男は、こちらに獅子が如き目を向けていた。
その隣に控えるは瞬く間に妖魔討伐で名を挙げた、金の不死者の妻エリス・リリス。
美しい青く艶やかな髪を伸ばし、白と金色を基調とした衣服――スリットのあるドレスと甲冑を合わせたものを身に纏いながらも、
マネス・ミダスの膝元に自らの手を撫でまわすように置きながら、ご機嫌な表情で、彼の肩に寄り添っている。
よりにもよって、あの男にどうしてそうも心許した状態でいられるのか――男の趣味が酷くねじ曲がっているのか、そういう趣味なのか。
そのどちらかしかありえないだろうな、という顔で一瞬だけ目を向けただけで、それがバレたのか気配で察されたのか。
穏やかで心地よさげであった赤い瞳が、こちらを射殺さんばかりの――只人なら二、三人は殺せそうな視線が飛んできたので、
慌てて目を逸らした。
そうして目を逸らした先には、穏やかな表情で、赤髪を軽く揺らしながら待つ一人の女性。
黒の教会に属するものが纏う修道女服ではない、別世界からシンプルなデザインのもの――それにしては、スリットが奥深くまで入っているが。
確かな若さを感じさせるというのに、人を包み込むような母性というか、穏やかさというか、
そういう人を引き寄せるような女性である事には違いない。
これもまた奥さんになっていたら一生懸命尽くしてくれそうだし、良い人そうだなあなんて目で見ていたら、
一瞬だけ『黒の大英雄』ヴェルドン・ヴェルドナックが、マネスと話していたはずなのに、
こちらにおっかない気配を向けてきたものだから、慌てて意識を逸らした。
「ヴェルドンさん、話に集中しないと」
「む……む。
……すまん、メレナス」
「……人の前で……いや、いい。
とりあえず、話を続きに戻すぞ」
それを見た黒の英雄の妻――八色の大地にやってきた、新たな戦神アクレスに仕えていると言われている女性、メレナスが、めっと窘め、
何か、からかうつもりで言いかけたマネスが、自らの太ももに手を這わせて、悪戯じみた目線を向けるエリスを見て、
その先の言葉を閉じた。
それからは、通常通りの話し合いが始まっている。議題は、当然決まっている。
箱庭とされる世界――そこからの新たな来訪者、そして大量移住を行った涙清教。それと関りを持つ"ただの一教徒"の女性、その2つが話題に上がっていた。
涙清教については、灰の大神官たる己も、先ずは他を知る事からの理念――灰に仕えるものとして、"知ることは、断ずることに先立つ"との考えがあった。
裁きと契約を司る灰の色を持つ者として、知らずしてその価値を、罪を、未来を断ずることは出来ぬ。故に、真っ先にこちらに改宗した元信徒から話を聞いたものだ。
そこで聞いた水の大精霊たる。ル・ティアーの話は興味深く、彼らの置かれていた状況にも理解を示すことは出来た。
聞いているうちに、彼らの決断も理解できたし、よくぞこの八色の大地を選んでくれたと、誇りに思う所もある。
八色の大地は、異来人――異世界からの来訪者に寛容である。一個人でもそれなりの成果や信仰を認められれば、他世界から行き来できる割符などを与えられる。
最近で言うなら、灰の信徒のアシュ・テフラース――テフラース家の忌子が、かなり無茶なやり方だったが、妖魔の隊長級の首を挙げて一人分の割符を手に入れていた。
それから、少し前には緑の小神にあたる、元大妖魔たる黒祭鼓(コクサイコ)が、複数名を招いていたはずだ。
異来人に寛容なのは、そういう土壌なのと――この世界に来て、妖魔の汚染する大地でない限り、原初の八神という抑止力が常に動いているからではあるのだが。
つまるところ、この世界の守護者は多くあれど、その中でもやはり確固たる柱とされているのは、
原初の八神と選ばれた8人の不死者になるのだが。
――先日の件を思い出すと胃が痛くなる。
神体まで顕現させた黄金の戦巨人、金の神ゴルサンと、白輝の六翼を広げた白の神セウラニが、灰の巨神ライゼニと目の前で激突した時は、もはや言葉の一つすら出なかった。
空間ごと封じられていた神殿は、それでも尚、破壊の奔流を留めきれなかった。
天穹は崩れ、星々が呻きを上げて墜ちたかのような跡。
大地は断裂し、咆哮する獣のように口を開けて割けた。
そこまでの争いとなったというのに、平然と主たる灰の巨神ライゼニは、容易く二柱の神々を制圧していたのだ。
しかも、その争いの原因が、また信じられぬ事に、"涙清教のただの一教徒"と来ていた。
こちらの世界に来たわけでもない、ただの異世界の宗教である涙清教の一教徒たる彼女への扱いに対して、
金の神が激怒したうえで、白の神もそれに乗ったという事なのだから、どういう事になるのかともなろう。
まして、青の神シウェブも彼女との関りによって、ライゼニの怒りを買い、灰雷によって全身を貫かれて、
今は神体ごと封印されている身である。
そんな問題を引き起こしている女について、己は何も知らないし、他の大神官も知らないときたものだ。
はっきりと言ってしまえば、それは異世界に知らぬ間に爆弾が出来ているようなものである。
その爆弾がいつ爆発してもおかしくないという可能性があるとなれば、そうもなろう。
――というより、その話が全く届いていないし、そんな特級の危険なものがあるなど知りたくはなかった。
そのうえ、それが己の信じる神ライゼニが、巫女とした挙句に記憶を消したのが発端であるなどと。
灰の大神官たるアブア・アブゥアが、わざわざゴウルドールまでやってきたのは、それがあったからだ。
黒の不死者ヴェルドン・ヴェルドナックと、金の不死者マネス・ミダスは、二人とも異世界であるフラウィウスに行った経験があり、
例の、ただの一教徒に接触している。
であれば少しでも情報が聞ければ良いとして、こうしてやってきたのだ。
本来であれば、主であるライゼニが直々に選んだであろう、ヴェセンスという男から聞くべきだとは思うのだが、
恐らく彼自身もライゼニから話を振られているであろうという事と、元異教徒でかつ新入りであるヴェセンスという男に話を聞きにいくというのは、
灰の大神官たる立場があるゆえに面倒だというのもある。
戦や鎮圧など、武としての右腕が不死者であれば、政と祭について支えている大神官は左腕ともいうべき存在であり、
不死者と同じように軽々しく動いて良い立場ではない。
――ないはずなんだがな。
不死者の現状を考えると、溜息を吐きたくもなる。
偉大なる星読み、青の星海とも呼ばれる人格者、青の不死者ゼェーレ・ツェーンはシウェブと共に連座する形で実質の軟禁状態。
金の不死者マネス・ミダスは結果的には良かったとはいえ、狂った状態で異世界へと渡航。
灰の不死者ウェプトン・ウェブトンは一時は脱走し、それを捕らえに黒のヴェルドンが派遣され捕縛。
銀の不死者シルバリア・セルヴィアは未だに何を考えているか分からないと、半数に不安を持つばかりときた。
「ライゼニは何を考えている?」
「私も、それを聞きたい所だ。
……原因に関しては、私にも思いつく部分はあるが」
「あー……それについては、私から説明させて欲しい、のだが……」
そんな事を考えている間に、話は進んでいた。
青の不死者である、ゼェーレ老の謹慎処分についての話から、
渦中の涙清教の一教徒――シアーナ・ラナスを巫女として選んだ理由を。
故に、己も口を開かねばならない。
「まあ、だろうな。
説明してもらおう」
「ええ、私も話を聞きたいと思っていました、アブア殿。
この馬鹿……堅物と話していても、あまり話が進まないもので」
「マネスさん?」
「……失礼。メレナス殿、言葉が過ぎました」
むすっとした表情の、黒のヴェルドンの妻であるメレナスに見つめられれば、詫びの言葉を一つ話す。
これだけでも、あの『昏き黄金』が随分と丸く――いや、前妻が生きていた時に近い状態にまで戻っていると分かるのだ。
現妻のおかげなのだと思えば、やはり他の世界から異来人を招く価値もあるものだとは思うが、それが原因で発生した問題もあるのであれば、
また、話は別だ。
歴代最強の黒の不死者と、実力だけで言うなら第二、三位を維持し続ける金の不死者が、こちらへと目を向ける。
その威圧感に耐えながら、ゆっくりと口を開いた。
「ライゼニの考えは、正直に言えば『ただ、その方が面白い』から」
「それ以上でも、以下でもない、のだと思う」
その言葉を告げた直後だった。
大気が、圧し掛かるように重みを増し、圧となり、襲い掛かってくる。
大地が低く唸りを上げ、確かに、震え、揺れていく。揺れるというのは、比喩ではない。
膨大な魔素が一瞬漏れ出して、確かに、屋敷が揺れた。
「ヴェルドンさん、抑えて。
……怒るのは分かるけど、ね?」
「……すまんな、メレナス」
それが、ただ一人の英雄から漏れたものだと、誰が思っただろうか。
体中から溢れ出す冷や汗を、何度か息を吐いてから、ゆっくりと自らの手拭いに手を伸ばし、それを拭く。
指先が落ち着かず、ぶるぶると震えていたが、誤魔化すように、力を込めた。
「エリス、座れ」
「ふふ、御免なさいね? 悪気はないと知っていても、ついね?」
平静そのものであったマネス・ミダスに対して、
瞬く間に立ち上がり、己の腕を剣へと変化させて、黒の不死者であるヴェルドンに、既に喉元へと突きつけていた。
それだけの――重圧感、威圧感があった。己の前にいたのが、"人であったか"を一瞬で忘れ飛ばすほどの。
しかし、言葉は続けねばならない。
「我が主ライゼニは、それが最も面白く、最も良いと思われた。
故に、そうしたのだ」
「それで、一人の女を壊したのか? 面白いというだけで。
それを最も良いなどとは、冗談でも出来の悪さが酷過ぎて、笑えんぞ――アブア」
目線が合う。呼吸が奪われる。
黒の甲冑から伸びる、ただ一つの腕。
理屈もなく、確信だけが芽生える。この男は、己を殺す事に対して、造作の一つもいるまいと、本能で理解した。
身体が、抗えぬまま竦む。妖魔の王を"枝"としか見なかった者。それが、黒の不死者――ヴェルドン・ヴェルドナックなのだ。
それを理屈など抜きに身体で覚えさせられた。
「我が主も考えが、あるの、だと」
息が詰まる。上手く、言葉の返事ができない。
「ヴェルドン。お前がそこで感情を苛立たせてもどうしようもないだろう。
……アブア殿。私はシアーナ・ラナスを……例の女の教徒を八色の大地に誘った身でもあるから、何となくは分かるが」
その視線を遮るような言葉を向けられ、黒のヴェルドンの目がそちらに向く。
それだけで、重圧から解き放たれて、大きく息を吐いた。
言葉で言う割に、複雑な表情を浮かべたままの金のマネス・ミダスは、溜息を吐く。
それは、過去の己の不始末を思い返したような、苦竜草をうっかり嚙み潰したような表情であった。
「涙清教の教え、そして彼女自身の意思を持ってして、私は誘ったが……。
まあ断られた事はともかく、その時点で神々が興味を抱いていたのは事実だ」
息を吐いたマネスに対して、
今度はヴェルドンの方が目を向けている。
「本来であれば、このマネスの馬鹿とこじれなければ、
ヨルウル様の元に派遣される予定だったのだがな。
……とはいえ、彼女が来るかどうかは、選択次第ではあったから、それもまた違うか」
同時に、あまりにも聞き逃せない言葉に、止めざるを得なかった。
「……待ってくれ、その時から彼女に神が興味を抱いていたという事は、
その時から神々は彼女に接触を?」
思わず、身を乗り出していた。
たかが、異世界の異教徒一人に、既に神が接触していたとなれば、随分と話が変わってくる。
「知らんのか?」
「……知らないだろう。ライゼニがそれを言うとも思えん。
シウェブ様の顛末の前から、ゴルサンもセウラニ様も、ヨルウル様も関わっていた」
アブア殿が苦労されることを楽しみにしているような節もあるだろう、と金のマネス・ミダスが付け足した。
その言葉に、大きな大きな、それはもう部屋に響き渡る溜息を吐く。
「待ってくれ。理解が追い付かない。
その異教徒の女、シアーナはなんだ? 夜魔や夢魔の王をも超えた、神に届きうる魅了の術でも使えるのか?」
「そんな術は持っていないが、少なくとも関心を引かれたのは事実だ」
黒のヴェルドンの、端的すぎる言葉を補足するように、
金のマネスが続けて言葉を足した。
「シウェブ様に至っては、知っての通り巫女に――いや、大神官が言うには第一の巫女にしてもいいと思っていたようだがな」
「待て待て待て待て。
シウェブ様が偶に市井に出て、女や男を抱いているのは有名な話だが、
第一の巫女だと?」
次々と、厄介事になりそうな話しか出てこない。
胃にきりきりとした痛みを感じるだけではなく、頭すら痛くなってくる。
そんな女を灰の巫女にするなどと、どう考えても青の神シウェブに対する、宣戦布告とまではいかずとも、露骨な牽制ではないか。
そして、灰の神ライゼニが"人間種"を抱くなどと言う事はあり得ない。
青の神シウェブや黒の神ヨルウルのように人に近すぎるわけもなく、金の神ゴルサンのように人と神の間を保つわけがない。
主たる灰の神は、『物語』としての面白さと『世界の変化と維持』、相反するそれを求められるのだと、
傍にいる己が何よりも知っていた。
――正直に言えば、白髪の君、ミオリッツァ老に相談したい。
もしくは、灰の神ライゼニの意図を理解できる他の者にも。
今回の件、元々穏健派であるはずの、あの金の神ゴルサンが激怒したという時点で覚悟していたが、
思った以上に根が深いのかもしれない。
涙清教の者たちをまとめて招き入れた事についてもそうだが、灰の神ライゼニは、"物語"だけではない。
明確な意図を持って動いているとしか思えない。
逆に、青の神シウェブの入れ込みようは、本気にも等しい。ライゼニが動いた時点で、まさかとは思っていたが。
第一の巫女――空席となっていた巫女長という事になれば、それは大神官の次席にも等しいものだ。
確かに、神自らが選び巫女や神官となったケースはある。こちらの世界の美点だと思っているが、所謂余所者が急に高い地位につけられたとて、
それを妬むものは少ない。
妖魔という脅威にあって、実力主義かつ団結の意思が必要というのが、貴族や民、商人、亜人や魔族に至ってまで周知されている。
だからこそ、余計に困惑するのだ。
「なぜシウェブ様は、それでその教徒を連れ帰られなかった?
連れ帰り、第一の巫女としても何も問題はなかっただろう。
神の寵愛を受けたのであれば、それは、もはや決まったようなものではないか」
異教徒であれ、そこまで青の神シウェブが気に入ったのであれば、問題はないはずだ。
そして涙清教の者であれば、海の神でもあるシウェブを受け入れるのは早かった。
改宗者も7人ほどいるという話も聞いている。そして、彼らの崇める大精霊にも考えは近い。
ともすれば、それは普通の道を歩んでいては手に入らぬ名誉であるとすら言える。
それを拒んだのか、それとも青の神シウェブに思う所があったのか。
――いや、どちらかと言えば、シウェブの方に何かあったのだろう。
神の命を拒むことなど、あり得ないし、不可能なのだ。
まして、彼らは神の寵愛をよく知っている。『この世界や実際の神』と遭遇し、よく知っている。
であれば、それに従うしかないのだ。喜びからであれ、諦めからであれ、それを受け入れざるを得ないのが、只人であった。
だが、シアーナ・ラナスという異教徒はシウェブの巫女にならず、ライゼニの巫女となった。
ライゼニが憐れむなどあり得ないとすれば、ただライゼニに利があるから、そうしたとしか考えられない。
シアーナという女がシウェブの元に行くのを拒むために、ライゼニ側についたなどとも思えず。
「――シウェブ様が代価を求めなかった話があったが、それか」
青の神たるシウェブが代価を捻じ曲げた上に、結局異教徒を――シアーナ・ラナスを、巫女にすらしなかった。
そこに事は発しているのか、と推測がつく。
アレについては神たる役目を果たさなかったと、ライゼニが激怒していたのを覚えている。
その問題が、異教徒の女絡みとまでは知らなかったが。
いつの間にか、考える事に熱中し、机を叩きながら考えを述べていた。
それを黙って、二人の不死者が聞いて、その妻たちも時折立ち上がり、すっかり空になった器に新たな飲み物を入れて持ってくる。
つまり、シアーナ・ラナスは利用価値があるゆえに、確保されているというのは間違いない。
「シウェブ様にとって、恐らく特別な女なのだろうよ。
だが、我が主ライゼニはそのような事は考えまい。
物語としての面白さと、この世界の『維持と発展』にのみ、眼を注いでいるのだから」
シアーナ・ラナスは、その面白さを買われたのだ。
彼女自身を舞台装置に祭り上げて、物語が、世界がどう動くか、それだけのために。
「我が主は、そういう神なのだ。
……人のように見えているだけの、得体の知れぬ、されど偉大なる『神』なのだ」
結局のところ、自分たちは神々が紡ぐ"物語"という名の大河の、岸辺に座すに過ぎない。
ただ、その物語の主役が、ほんの一滴の涙に過ぎぬ異教徒であった。
そして――その一滴の波紋によって世界の形は、すでに静かに、確かに、変わり始めていた事に気づき始めた。
静寂が、部屋を支配していた。
何も発せられぬまま、ただ、器の底に残った光の揺らめきが、ゆらゆらと、己の顔を歪ませていた。
気づけば、誰もが沈黙していた。ヴェルドンも、マネスも、彼らの伴侶すらも。
それは議論の終わりではなく――言葉の続きが、誰の口からも生まれぬという、妙な均衡だった。
「いずれにせよ、調べねばならん。
シアーナ・ラナスという女を、ライゼニが何をもって、それをしたのかを」
それに対して返る声はなく、ただヴェルドンの瞳が、再びこちらを射抜くように向けられた。
そこには怒りではない、理解と同意に、鋭さを含めた目線だった。
「アブアさん」
それまで黙していたメレナスが、そっと前へ出る。
赤髪が揺れ、その奥から、何処か寂しげな微笑が浮かんだ。
「あなたが信じる灰は、決して無意味ではないわ。
けれど、そうね。神々の裏側、"灰の向こう"にあるものを見ることも、時には必要なのだと思う」
それは慰めではなく、忠告でもない。
ただ、物語の裏側を覗いた事がある者からの、等しく差し出された言葉だった。
そうして、誰かが、重い息を吐いた。
「いずれにせよ、ライゼニは舞台を用意している。
――後は、誰がそこで踊り始めるかだろう」
それはマネスの声だったか、ヴェルドンの声だったか。あるいは、もっと別の何かの、囁きだったのかもしれない。
静けさのなか、再び杯に注がれる、淡い香のする液体の音だけが響いた。
それが終わりの合図か、或いは始まりの号砲であると気づいたのは――もっと後のことだった。