RECORD

Eno.270 『血雨』のユーファの記録

数年前の戦場にて

 数年前。とある依頼を引き受けたことがある。

 暗殺者としての依頼と傭兵としての依頼、両方を合わせたような依頼だと思った。
 何らかのルートでこちらの正体を暴き、表向きは旅の踊り子として国から国を、町から町を渡り歩くユーファの足取りを掴んで調べ上げ、さまざまな形で依頼を持ち込んでくる依頼者たちは大体追い詰められたような顔をしていることが多い。
 だが、その日に依頼を持ち込んできた依頼者がまとう空気は、これまで顔を合わせてきた依頼者たちとは何かが違うように感じられた。

 持ち込まれた依頼は、とある国の将校を討ち取ってこい――というもの。
 依頼人とその将校に一体どのような因縁や関係があって、討ち取ってこいと依頼を出すほどの恨みやそれに近しい感情を抱くようになったのか、ユーファにはわからない。
 だが、積まれた報酬に文句はなかったし、もし利用するだけ利用してこちらを切り捨てるつもりだったんだとしたら、そのときはこの依頼人の首をはねればいい。
 そう判断し、ユーファは静かに口を開いた。

『わかりました。お引き受けいたしましょう』

 ただし、今回は相手が相手。国を守る人間を殺すことになります。
 ですから、わたくしがその将校を討ち取ったあと獣人や亜人のせいであると囁いてこちらに憎悪の目が向くようにはしないでくださいね。
 そのときは、わたくしがあなた様の首を取りにまいります。
 一枚の契約書を差し出しながらそういって、依頼を引き受けることにしたのを今でも覚えている。



 ターゲットについて手早く調べた結果、とある国との戦争に駆り出されるのだという情報が手元に入った。
 戦場は死の気配が渦巻く場所。いつ、誰が命を落としてもおかしくはない場所。
 さまざまなルートでターゲットと接触して討ち取るよりも、この戦争にまぎれて討ち取ってしまったほうが足がつきにくいのではないか。
 そう判断し、来たる日に戦場へ紛れ込む計画を立てて――その日を迎えた。

 深くフードを被り、顔を見えにくくした姿で戦場となった大地の土を踏む。
 長年、雨を知らぬ土地なのだろうと思った。踏んだ土は乾ききっていて、水を含んでも上手い逃し方を知らなさそうな大地だった。
 念入りに情報収集をしていたのもあり、ターゲットの姿はすぐに見つけ出すことができた。
 気配を殺し、物陰に身を潜め、ターゲットが部下たちに指示を出す声に耳を傾ける。
 ここからは対象の姿形を見ることは叶わないが、なるほど。どうやら撤退していたところを追い詰め、包囲したらしい。
 首級か――あるいはそれに匹敵するような手強い相手か。どのような相手なのかわからないが、とにかくターゲットの意識はそちらへ向いている。

 勝利は自分たちの手の中にあると確信してもおかしくない戦況。
 撤退していた獲物を追い詰め、包囲することに成功した圧倒的に有利な状況。
 ターゲットの意識も、ターゲットが率いる部下たちも、目の前の獲物に集中している。


 ――こちらにとって、これ以上ない好機。


 そう認識した瞬間、ぱたりと天から雨粒が落ちる。
 一粒だけだったそれは次第に二つ三つと数を増やし、勢いを増して戦場全体を包み込んだ。
 ユーファにとっては珍しくないこと。自分が戦場に立ったとき、まるでこちらの思いや殺意に応えるかのように雨が降る。
 戦場に雨を呼び、その中で『仕事』をするのはもう何度もしてきたことだ。
 が、ターゲットにとってはそうではない。数十年と干魃が続いた地に何の前触れもなく雨が降る――異常ともいえる事態だ。

 雨を知らぬ大地にとっては恵みの雨。
 今まさに敵国の人間を討ち取ろうとしていたターゲットにとっては突然すぎる鬼雨。
 勝利を目前にしたタイミングで予測不可能なこと――それも、急激な天候の変化が起きたのだ。
 たちまち視界や足場が悪くなっていくことも含めて、その場には混乱が広がっていく。
 天候の変化で正常な判断力を奪ってしまえば、あとはもうこっちのものだ。

 降りしきる雨の中に、自身の気配と足音を溶かし込む。
 足音も気配もほとんど感じさせない状態で、ターゲットの背後に接近して。

 ひゅぱん、と。

 双剣を鞘から抜き、ターゲットの首元を狙って一閃。
 狙い通り首が飛んで、紅が散る。雨の匂いの中に濃い鉄の匂いが混じり、フェイスヴェールで隠した口元が弧を描くのを感じた。
 突然の襲撃に凍りついた空気の中、ターゲットの傍に立っていた部下の一人がこちらを見る。
 右腕かそれに近しい立場の兵士だろうか。視線が絡む。顔を見られたと判断し、振るう二撃目。剣の切っ先が相手の喉を貫き、散った血が顔を汚した。

 直後、背後で気配を感じる。
 混乱しているとはいえ、気配を隠さないとは――いや、隠す余裕がないのか。
 考えながらも、竜族が持つ身体能力の高さに物を言わせて高く跳躍する。つい先ほどまで立っていた場所に刃が振るわれるのが逆さまになった視界に映った。
 相手の背後に着地し、相手がこちらの動きに反応する前に剣を突き刺して三撃目。
 急所からは外れてしまったが、今日は確実にターゲットを討ち取れるよう事前に出血毒を刃に塗っておいたから、じきに息絶えるだろう。

『――悪魔だ』

 雨の音に混じって聞こえた、恐怖に彩られた声ははたして誰のものだったか。
 きろりと声が聞こえたほうを一瞥したのち、双剣を片方だけ鞘に収めてから転がっていたターゲットの首に手を伸ばす。
 依頼は達成した。少しばかり遊んでしまったが、これだけ暴れれば将を失った兵士たちは撤退を選ぶだろう。
 色濃い混乱と雨で薄まっていく血の匂い、そして土埃の匂いを感じながら、拾い上げた首を片手にその場を離脱する。
 降りしきる雨に気配も足音も溶かし込んだユーファの後を追ってくる者は、誰もいなかった。


 ――その途中。


「――……そういえば……」

 ふと。
 ふと、ターゲットの一団が囲んでいた獲物のことを思い出した。
 ターゲットの首を取ることに集中していて、その場にいたターゲットの獲物たちがどうしたかを確認するのを忘れていた。
 相手にとっては撤退する絶好のチャンスだ。あの混乱に乗じて撤退した可能性は高そうだが、あの場にいた人間であることは確か。
 探し、追って、消すか否か――少しばかり思考を巡らせたが、すぐに首を緩く左右に振った。

「……まあいいか」

 ターゲットの襲撃は背後から行った。姿は見えにくいはず。
 何より、この雨が視界の大部分を奪っていたはずだ。距離もあったから、顔を見られている可能性は低い。
 なら、わざわざ探し出して刃を振るう理由はない――そう判断し、ユーファは撤退する足に力を込めた。

 ただ、それだけの記憶。依頼を受けてこなしたというだけの記憶。
 そう認識していたからこそ――雨が隠してくれていると思っていた、ほんのかすかな香を感じ取られていたことも。
 数年後、異界の地で追わないと判断した相手と出会うことも、これっぽっちも予想していなかったのだ。