RECORD

Eno.270 『血雨』のユーファの記録

師の夢

 ――おちびさんは感情を殺したふりをするのが上手だね。


 遠い遠い過去、己がまだ幼い頃の記憶。
 暗殺者としての教育の一つとして、数多の種類の毒と解毒剤の味をその身に覚え込ませる訓練の合間、己に毒薬訓練の教官としてついていた大人はそうこぼした。
 あのときは解毒剤を飲んだ直後で毒の影響がまだ残っていて、喉が焼けたかのように痛くて、まともに言葉を返すことができなかった。
 だが、感情を殺した『ふり』というのはどういうことなのか――と疑問を抱いた覚えがある。


 ――ここの連中は、暗殺者たるもの自分の感情は殺せだなんて言うが。
 感情なんて心にくっついてるものなんだから、完全に殺すのは無理だろうって僕は考えてるんだよ。



 ぼやくようにそういって、教官は紫煙を吐き出していた。
 ユーファが返事をできないのは前提で、自分の胸の内にあるものをただ言葉にして吐き出しているかのような調子だった。
 教官から手渡された解毒剤を追加で水と一緒に飲み込みながら、その日のユーファは無言で彼の言葉に耳を傾けていた。


 ――どいつもこいつも、それを律儀に守ろうとしてるが。
 おちびさんはその中でも、特に感情を殺すふりが上手だ。将来は期待できるって口にする奴が多いくらい。



 言葉を紡いでいるときの教官は、いつも遠くを見る目をしていた。
 いつも遠くを見て、ぐちゃぐちゃな言葉を呟いていて、だから周りの大人たちは彼を狂人と呼んでいた。
 当時は主に妙な人間と認識していなかったが、今思うと、彼は新たな毒を少量ずつ自らの身に馴染ませては解毒剤を調合していた。
 彼がぼんやりしているときは、きっと自ら含んだ毒の影響と戦っていたのだろう。


 ――けど、さっきも言ったように、感情なんてものは完全に殺せないんだから。
 できても、おちびさんみたいに感情を殺したふりをする程度なんだから。
 ……だからさ、おちびさん。



 虚ろだった教官の目に光が宿り、ユーファの姿を映し出す。



 ――この先、どうしようもないぐらいに感情が揺さぶられる瞬間がきたら。
 そのときは、無理に殺そうとせず、おちびさん自身の心の声を聞いてやりなよ。




 あの日、教官が口にした言葉。
 記憶の片隅に置かれたまま忘れていた言葉が、鮮明に蘇った。


――――――――。
――――――。
――――。
――。


 は、と。
 眠りの間にたゆたっていた意識が急速に引き戻され、目を開ける。
 目を開いて最初に飛び込んできたのは、己が拠点としている宿屋の天井で――自分が今いる場所があの施設ではなくフラウィウスなのだと物語っていた。

 ゆっくりとベッドから身を起こし、窓の外へ目を向ける。
 見える街並みは薄闇の色に染まっており、夜明けが近いことを物語っている。
 けれど、完全に夜が明けるにはまだ少しの時間が必要で、多くの剣闘士もまだ夢の中にいるだろう。
 寝直す気にもなれず、ユーファは肺の中で淀んでいる空気を細く吐き出した。

「……ずいぶんと、懐かしい頃の夢を見ましたね……」

 ユーファにありとあらゆる毒の味を舌に慣れさせ、解毒剤の味を覚えさせ、その調合方法も叩き込んでくれた教官。
 いかにも不健康そうな顔色と身なりをした彼は、ユーファと同じくスラム街という掃き溜めで生まれ育った人間で――その共通点から、ユーファはそれなりに心を許していた。
 そんな彼がこぼした言葉を今、夢の中で思い出したのは、彼が口にしていた瞬間が訪れているからに違いない。

「……わたくし自身の心の声を、聞けと言われても……」

 仮面を身に着けて、無害な旅の踊り子を演じて、その裏で血を浴びて――それをまた隠し通す。
 そんなことばかりをしていたから、自分自身の心の声を聞くのがほんの少しだけ恐ろしい。

「……どうすれば、よいのですか」

 教官。
 小さく呟かれた言葉は誰にも届くことなく、夜明け前の薄闇に力なく響いて消えていく。
 どうしようもない戸惑いばかりが胸の奥で渦巻いている。
 今だけ、まるで幼い頃に帰ったかのような気分だった。