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Eno.102 不明門通 辰巳の記録

【日記05】螺千城の話---累卵之危01




白昼夢という言葉がある。
陽の高いうちの真昼間に、起きながらにして夢を見る。だから読んで字のごとく白昼夢だ。
しかし太陽は大分傾いていて、赫赫たる西日が強く差し込んでいる。昼ではなく夕方夢だろう。
夢の中で強く目を瞑り、早く起きろと念じてみた。お前が居るべきはここではない、決してこんな所では。

「人間だよ、人間がいる」
「放っておきなよ、人間に触っちゃいけないんだぞ」
「そんなこと言ったって、見かけちゃったんだもの」

ねえ、と無遠慮に自らの腕を掴む手は黒々としていた。
黒人の腕ではない。
やれ昨今では呼称が差別的だなんだと、黒人ではなくアフリカ人と呼ぶべきだとテレヴィジョンのワイドショーで口煩く声高々に言われていた───。
つまるところ、ネグロイドのことではない。

透き通っている。透き通った上で、ぼんやりと黒い。
濁った水をガラスの椀にいれて底から見上げたような、黒くて透明で、どうやったって腕の色には到底適さない色をしていた。
こんな腕の色の人間が居たら、病どころの騒ぎでない。一刻も早く病院にかかるべきだ。

「……あ、う」
「おや声が出るじゃないか。意識はあるね。それなら話が早いや」
「やれやれ全く……なあ早く帰った方がいいよ、きみ。人間なんだろう?」

もごもごと目の前の二つ分あるそれが体を震わせて言った。
若い男のようにも聞こえるし、老齢の女性のようにも聞こえる奇妙な声だ。おまけに酷く声がくぐもっている。
ゴボゴボ、と身体の節々の至る所から水泡の湧き出るそれは、二つとも奇妙奇天烈極まりない。
生物と定義していいのかさえ怪しい形態をしていた。
黒くて透き通った腕の生えた、水饅頭だか水羊羹だかによく似たまあるいフォルム。地球上に存在し得ない生き物。いいや生き物じゃない。これはばけものだ。

ああ、ああ、ああ。どうか早く覚めてくれ白昼夢よ。
頬をつねりたいのに、ばけものに掴まれた自らの腕はガタガタみっともなく震えていて、云う事を聞く気配が全くない。
代わりに膝が大爆笑して奥歯がカチカチとあたる感触が鮮明に伝わる。やけにリアリティのある夢だった。

「ひ……っ!」
「だめだ、すっかり怯えているよ」
「だから言ったじゃないか、放っておけばよかったのに。きみが声なんかかけるから」
「そんなこと言ったって、ねえ」
「どうするんだい。面倒なことになったぞ」

どうしよう。
どうするかね。
誰か呼ぶか。呼ぶまいか。
誰かって誰を。
目の前の奇妙なそれらの会話を生唾を飲みながら聞いていると、ややあってから不意に片方がニュウウと縦に伸びた。

「おや、これは良いところに来たね」
「ほんとほんと! 実に良いところに来た!」
「良いところにって、」

厄介どころの間違いだろう、と響く声は。
目の前で話を繰り広げるばけもののそれよりも明瞭に聞こえた。ゴボゴボと泡の音もなく、膜を張ったようなぼんやりした音でもない。これは人の声だ。
弾かれたように顔を上げれば、そこには久方ぶりに見る己の同族の……人間の男が立っていた。
年若く見える青年はこちらを見下ろして、開口一番こう言い放つ。

「人間がいる。珍しいな」

お前も人間だろ、と返せる余裕は残念ながら毛ほどもなく。
生憎と張れるような虚勢はとうに失われていた。



浅葱色の派手な頭をして、同じく山吹色の派手な羽織りを肩にかけて。髪色と同じ色の、大きな和傘を携えて。
何かよく分からない模様が書かれた護符らしき紙を、左目を覆うようにぺたりと貼っている。
青年はじろりとこちらを無遠慮に、塞がれていない方の片目で見た。
二十にしてはさすがに童顔だろう、年の頃は十の半ばか後半に見て取れる。少年らしさと大人の精悍さがまぜこぜになった顔つきの、眠たげな半目の男。
欠けた硝子の切っ先を思わせる端正な顔をしていた。
しかし血色のいい肌の色をしているのに、どこか言い表せない部分がはっきりとしない。輪郭が曖昧というか、ぼんやりとして生気が薄い。
こんなに派手な見た目をしているのにも関わらず、目を離した次の瞬間には煙のように立ち消えてしまいそうだった。
佇まいは幽玄で、形容し難い妖しさと儚さを纏っている。こんな街で会った唯一の人間だから、そう感じてしまうだけなのだろうか。まるで霧を背負ったような男だった。

頭のてっぺんから足の爪先まで、こちらを一通り値踏みをするように見た後に。青年はゆっくりと膝をつく。

「なあアンタ。先に用事を為済ませてもいいか」

ここで断れる豪胆さなんて持ち合わせていない。こくこくと必死に頷けば青年もひとつウンと頷いた。
そのまま青年は立ち上がるとタッタッタ、と軽快に欄干を往く。

必死で逃げていたせいで景観なんてここまでまったく目に入っていなかったが、よくよく見ればアジアンテイストな趣のあるごちゃごちゃとした猥雑な場所に自分は居た。
周囲には色とりどりの提灯が吊られ、あちこちに洗濯物らしき布が靡いている。家々が所狭しと敷き詰められて積み重ねられた、まるで巨大なジェンガを6棟ほど横並べているような。
もしも建築家やデザイナーに概する人物がいたのならば建築基準法違反で即刻しょっぴかれそうな住宅地。
バラエティー番組でみたことのある、海外にあるいずこかの街がぼんやりと想起された。あの街はなんという名前だったろうか。

青年は片足分の幅しかない狭い欄干を器用に歩いて、何軒か先で立ち止まるとトントンと色硝子を叩いた。たてつけの悪い窓が軋みながら開かれる。
そこから伸びてくる手も、この世のものとは思えない淡い薄紫をしていた。慌てて視界に入れぬよう目線を下げる。ばけものが増えてしまった。

「よく来たね。待ちくたびれたよ」
「悪いな遅れて。道化硝子が塞がっていて通れなかったんだ」
「言ってくれたら迎えに行ったのに」
「その足でか?」
「この足でさ」
「冗談だろ」
「無論、冗談だとも」

どんな足をしているのか知りたくも無かった。想像できないと言った方が正しいかもしれない。淡い薄紫の手だから、きっと足も同じく淡い薄紫色をしているのだろうけれど。
窓越しにばけものと話す青年の声には、西の方の訛りが混じっていた。
京ことばのはんなりとした独特のイントネーションに加えて、大阪のちゃきちゃきした本場の関西弁を無理やり標準語に直したような、例えるならばそんな感じの訛りだ。

青年は懐からキラキラとした何かを差し出して、淡い薄紫の手が大事そうに受け取る。何を渡したのかはこの位置からだと見えなかった。
何度か表面を愛おしそうに撫でてから、淡い薄紫の手は窓の奥へと引っ込んでいった。
暫くして、また手が窓の外に出てくる。キラキラとした品の代わりに握られた、手のひら大のモノを今度は青年が受け取った。
ちゃりり、と金属が擦れる軽い音がかろうじて聞こえる。サイズからして貨幣のようだ。

「はぁい、お勘定。ありがとうね、また届けに来てね」
「毎度あり。今後ともご贔屓に」

ぱたん、と色硝子の窓が閉まる。
青年は来た時と同じようにまたタッタッタ、と平均台を渡る小学生のように軽快に戻って来た。顔がずっと前を向いていたから足元をこれっぽっちも見ていない。
自分ならばこの細い欄干をこの速度では歩いてこれまい。壁に手をついて踏み外さないよう細心の注意を払いながら、数センチずつの摺り足がせいぜいだ。
置いてけぼりを食らっていた自分の前に戻ってきた青年は「それで、」と切り出した。

「それで、アンタは何でここに居るんだ?」
「そ、そ、それは、」
「それは?」
「分からないんだ……!」

むう、と青年の眉が分かりやすく下がった。困惑と疑いが半分ずつ綯い交ぜになった顔をしていた。
嘘じゃない。本当だ。本当にこちらはなんでこんな場所に居るのか分からないのだ。
自分はもういっぱいいっぱいだった。わけのわからない場所にきて、ここまでずっと、ずっとずっと必死だったのだ。堰を切ったように言葉があふれる。
急に大きくなった自分の声に驚いたのか、最初に話しかけてきたばけもの二人がゴボゴボ音を立てながら揃ってニュウウと縦に伸びた。今はそれすら気にならない。

仕事帰りに数年ぶりに妹に会って、数年ぶりの再会だというのに二言三言交わしたと思えばすぐに金を無心されて、カチンときて。
彼女と言い争いながら、振り切って自宅に逃げ帰ろうと普段は通らない路地を通ったら、そうしたら。気づけばここに来てしまったのだと目の前の青年にぶちまけた。
急に大声で知らない大人から主張を聞かされた青年もたまったものではなかったかもしれない、申し訳ない。しかしこちらも事情が事情だ。

こんなわけのわからない、色彩爆弾のはじけたような、意味不明なこの街に。
ウヨウヨとそこらじゅうにばけものが闊歩しているとんでもない街から、走って、逃れて、迷った。
出口も見つからない、疲れ果てて足も動かせなくなった所で、とうとうこの二匹に見つかったのだと。

濁流のように溢れ出たこちらの言い分をひとしきり───ちょっぴり迷惑そうに聞いてから。
青年はこちらから目線を外すと、咎めるような声色でばけものの片方を和傘の先で軽く小突く。

「人間に話しかけるなよ」
「ほら見ろ、僕の言ったとおりじゃないか。二対一だぞ。人間に触っちゃいけないんだぞ」
「そんなこと言ったって、見かけちゃったんだもの」

先の言葉と寸分違わぬセリフで、片方の透き通った黒いばけものが反論している。
もういやだ、ここから帰してくれ、と絞り出すように言えば青年は首を横に振った。どういうことだ。

「帰す帰さないの問題じゃない」
「え?」
「もしここに一般人が迷い込んだら、気付かないまま抜け出すのが大半だ。よしんば気づいてもそのうち出ていく。帰れない奴なんてほんの一握り、ごく一部だよ。大丈夫だ」
「大丈夫なもんか、なにが大丈夫なんだ! じゃあどうやって帰ればいい! もうさんざ歩いた、一向に帰れないんだよ!」

出口が無いんだとキィンとした金切り声で叫ぶのを、青年はうるさかったのか片耳を塞いで音量を和らげながら気の毒そうに聞いていた。
しかし青年とは対照的に、黒くて半透明のばけものの片方が伸びたままぐんにゃりと横に逸れた。
もしも人間だったら、こてりと首を横に傾げていたのかもしれない。ごぼ、と泡の音をたてながら見定めるようにばけものは体勢を戻した。

「あー、いや待ってくれ。これはちょっと帰れないぞ」
「なんだって? どういうことだ?」
「この人間、どこかで神秘に触れちまってるよ。だって、べったり手垢がついてるもの」

見てごらん、とばけものが腕を伸ばして来たので大袈裟に仰け反った。冗談じゃない、さっきは腕を掴まれたが二度目があってたまるか。
青年は反らされた身体の一点を見て「あ」と呆けた声を出した。

「……本当だ。こりゃだめだ」
「でしょう」
「な、何が駄目なんだ。どうして俺は帰れないんだ。神秘に触れたってなんのことだ」
「うーん、少し待ってくれ」

青年はこちらの問いかけに答えずに、顎に手を当ててしばらく唸った。
思い悩む素振りの途中、フゥと深い息が吐かれる。呆れや面倒さとは少し異なる、嘆息とも溜息とも違う。
これからどうすべきか考え込むようなニュアンスが含まれた思案の吐息。
多少の同情心が働いたのかこちらを見つめる瞳が柔く細められた気がした。

「自治を請け負ってる連中に声をかけてみよう。俺も一応所属の端くれだからな」
「ああ、あの横文字の……なんだっけ? なんて名乗っていたのだったか」
「アザーサイドコロニスト」
「そうそう! それだ!」

聞いたことのない言葉だった。聞き返すよりも先に、パァっと青年が持っていた和傘を広げる。青々とした涼しげな色が視界いっぱいに広がった。

「アンタ、名前は」
「ミナギ……」
「どんな字を書く?」

美しいに袋と書いて美袋。
これで美袋と読むのだと言えば、青年は分かっているのかいないのかフンフンと曖昧に頷いた。

「少しの間になるが、よろしく美袋」
「よ、よろしく……」

差し出された片手を握る。倣ってこちらも名前を聞こうとして、しかしすぐ傍にいたばけもの達に遮られてしまった。

「───あ、あの、」
「それじゃあこの場は任せてもいいかい、若旦那」
「ああ、任された」
「いやぁ助かっちゃった。またね若旦那」
「またな二人とも。……もう人間に不用意に声をかけるなよ」
「ほうら。それ見たことか。言われてるぞ」
「そんなこと言ったって、見かけちゃったんだもの」

透き通った水饅頭だか水羊羹だかのばけものが伸ばした手を左右に振っている。ごぽりと泡のような音を周囲に撒き散らしながら遠ざかっていく。
若旦那、と呼ばれた青年がそれにこたえるように傘を軽く持ち上げた。

「若旦那……?」
「ここらの連中にはそう呼ばれてる。まあ、通称みたいなものだ」

好きに呼んでくれ、と若旦那は言った。