RECORD
Eno.102 不明門通 辰巳の記録
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世界には裏と表があるのだと若旦那は言った。
表が人間の世界、裏がばけものの世界だそうだ。
……いやはや白昼夢から全く抜け出せていない。漫画やアニメーション作品の向こう側の世界に自分は立っているらしい。
たまに、本当にごくまれに。自分のような事情を知らない人間が裏世界に迷い込んでしまうのだと若旦那はつづけて言った。
先に説明してくれた通り、大半の場合はそうだと気付かずに表世界へと抜け出せるのだが、これまたごくまれに抜け出せないケースがあるらしい。己がそうだ。運が無かった。
神秘に触れたのだと言っていたが、おそらくそれに関連する言葉なのだろう。
「ここは螺千城って名がついてる裏世界の一角なんだ」
「ラゼンジョウ?」
「螺旋の螺に───いや、いいか。誰がこの街の名を付けたのかは俺も知らないし、そもそもこの漢字で綴りがあっているのかも定かじゃない。とにかくそう呼ばれてる区画のひとつ」
「若旦那はその、ここでの暮らしは長いのか」
「七つの頃からだ」
「な、ななつ……」
小学校の低学年だ。十の半ばを迎えているなら相当の年数こちらに居る事になる。
若旦那の背に隠れながらおっかなびっくり街を観察するうち、お世辞にも治安がいいとは呼べない地区であることはなんとなく分かった。こんなところで七つの頃から。
百歩譲ってばけものがいることを除いても、排水やら配線やらが現世とは全く異なる。まるでスラム街の様相を成していた。
住むところが無いならば増やしてしまえと際限なく好きなだけ増築を繰り返したような、建築基準を無視した住宅に、火災の危険性をろくすっぽ考えていないであろう装飾や電灯が絡みついている。
縦に横にどんどん連なる家はいつ崩れても可笑しくない積み木を思わせた。
もし震災が来たら終わりだこの街は。
赤い提灯がゆれるのをぼんやりと眺めながら、ようやくこの街とよく似た景観の地域名を思い出していた。
九龍城砦。
城塞跡地に建てられていた巨大なスラム街。東洋の魔窟、かつてのアジアン・カオスの象徴的存在。
「ここって、もしかして香港?」
「そんなわけないだろ。裏世界だよ」
そうして冒頭の説明がなされた。
裏世界。現世とは異なる場所。かくりよ。にわかには信じがたいが、ばけものの存在が拾いたくもない信憑性を嫌でも発揮していた。
「なあ若旦那、どこに向かってるんだ」
「堝々のもうちょっと先のあたり」
「知らない……」
「だろうな」
カガ、と言われて思いつくのは大日本帝国海軍の航空母艦の加賀くらいだ。
この街だってまさか船は座礁していないだろうし、そもそも同船はミッドウェー海戦で沈没している。
とにかくその堝々とかいう場所に若旦那は用事があるらしかった。
「普段は瓦卵堂まで行くことは少ないから、用事をまとめて持ってきちまったんだ。悪いな美袋。しばらく付き合って欲しい」
「いや、送って貰ってる身で文句は言えないけど……」
ガランドウも聞いたことのない地名だった。まるで日本の地名らしくないのに、響きだけはどこか日本語らしい。
ラゼンジョウはいったい何区画に分かれているのだろう。全貌が全く分からない。
ネオン看板に並ぶ文字は日本語ではあるのだが、時折よくわからない文字が紛れ込んでいることもあった。
そのたびに若旦那があれはナントカだこれはナントカだと説明を挟んでくれたが、すべて右から左へすり抜けていった。脳が理解を拒否している。
傘を差して先を往く若旦那の背にそうっと隠れるように歩いていると、ばけものたちに奇異の目で見られる事は少なくなった。
ちらと視線を寄越されることはあるが、それだけだ。手を伸ばしてちょっかいをかけようとしてくる輩は目に見えて減っている。
逃げ回っていた時と全然違う。最初に降り立った場所ではそこらじゅうのばけものが一斉にこちらを覗き込んで来たから心臓が止まるかと思った。
ばけものとすれ違うと、たまに若旦那はあいさつ代わりに傘を持ち上げたり軽く頭を垂れて会釈をしたりとよくコミュニケーションをとっているのが見てとれた。
交友関係がそれなりにあるらしい。人間は残念ながら一人もすれ違わなかったが。
「若旦那、今のも顔馴染みか?」
「そんなところだ。この辺は特に得意先が多い。店やってるから、それの延長線上だな」
「へえ、こんなに若いのに店を?」
「螺千城で歳はあんまりアテにならないぞ」
確かに。自分の培ってきた二十数年あまりの常識はこの街で通用しそうにない。七つの頃からここにいれば染まり切っているのだろう。
この歳で店を持っていても別段おかしなことではないのかもしれない。
見るものすべてが見たことのない景色にすっかり目を奪われていると、若旦那が急に立ち止まったのでしたたかに鼻をぶつけてしまった。
「いて」
「ついた、ここが目的地の……大丈夫か?」
「だ、大丈夫だ」
「ならいいけど」
鼻をさすっている自分を怪訝そうに見てから、呼び鈴を握って適当に揺らしている。
若旦那はあくびをひとつこぼして目尻に浮いた涙を指で弾いていた。リラックスしている彼に対して、自分は所在なさげに突っ立っているしかない。
りんりん、と高い音のあとに扉の向こうから何か引きずるような音がする。
可愛らしいドアベルの音と共に現れたのは、やっぱりばけものだった。美人のばけものだ。人間じゃないと嬉しくない。
身の丈3メートル近くありそうな長身の、かなりの美貌をもつ女だった。
細かな刺繍の入った薄いフェイスベールで口許を密やかに隠しているがそれでもよく分かる、大きな瞳と厚い唇。一直線の高い鼻筋。
顔だけなら文句の付けようもなく百点満点なのだが、白魚のような極め細やかで美しい肌……の下のほう、下半身にびっしりと。蛇のようになめらかな光沢をもつ鱗が生えている。というか足が無い。
ギリシア神話のラミアーを思わせる大蛇の下腹部が足の代わりにくっついていた。減点方式を採用すると顔で稼いだ百点が消し飛んでしまう。加点方式で行きたいところだ。
「夜売りの姉御。久方ぶり」
「あら、若旦那じゃないの。ご機嫌いかが?」
「ボチボチってところだ」
おはいんなさい、と少し大きく扉が開かれて、そうして夜売りと呼ばれた女のばけものは初めてこちらを認識したようだった。
睫毛の長い瞳が開かれて、瞳孔が細長くなる。蛇に睨まれた蛙の気分だった。蛇のような容姿をしているから尚更のこと。
「珍しいわね、若旦那がお友達を連れてくるなんて」
「一般人だ。螺千城に迷い込んだらしい」
「あらまあ。よりにもよって螺千城に? よく食べられなかったこと」
「全くだ」
「たっ、食べ……!?」
聞こえてきた単語に思わず聞き返せば、クスクス夜売りが笑う。どうやら揶揄いをこめた冗談だったようだ。まったくもって冗談に聞こえない。
内心冷や汗をかきながら若旦那も人が悪いなと横目に見れば、仏頂面をした若旦那の口元が緩くほぐれて、微かに笑った気配があった。
え、と思って隣を見ると既にいつもの無表情に戻っている。
夜売りは茶と茶請けを出してくれた。
しかし口に運ぼうとした瞬間、どこかで聞きかじった知識が邪魔をする。異界のものを口にしてはならぬという迷信があった気がする。
ぴたりと手を止めたのが失礼だったろうかと、おずおず視線を上げれば。夜売りは微笑んでいた。
「黄泉竈食ひを気にしてるのね。感心感心」
「ヨ……?」
「よもつへぐい。黄泉の国の穢れた食べ物を食べること。別に裏世界のモンを食っても表世界に帰れないってことは無いぞ」
湯呑みに口をつけながら若旦那が言う。唇を湿らせてから、出された焼き菓子を何口かにわけて頬張っているせいかモゴモゴと途中で声が不明瞭になった。
遠い昔の学生時代に習った古い記憶で、古事記や日本書紀の範囲にそんな類のワードがあったなと記憶を掘り返す。掘り返すついでに、自分も若旦那に倣って湯吞みに口をつけた。
ずず、と茶を口に含んだ瞬間、夜売りが気色ばんだ声で歓声を上げる。
「しめた、飲んだわね! これであなたも螺千城の住民よ!」
「えっ!? あっ、熱っ!?」
「……姉御。勘弁してやってくれ。まだここにきて半日も経ってない」
「うふふ。冗談よ、冗談」
また冗談だったらしい。騙された。
「こういう人なんだよ」と若旦那は慣れているのか然して驚きもせずに、二つ目の焼き菓子に手を伸ばしている。
吹き出しそうになった茶をなんとか喉奥に追いやり、飲み下してようやく一息ついた。この短時間でどっと疲れた気がする。
夜売りも自分の茶を啜りながら、カウンター越しに若旦那に向き直った。
「それで今日はどうしたの。買いに来たの?」
「そういえば夜売りって」
「文字通りよ。夜を売ってるの」
「よ、夜を……売って……?」
例の二文字が頭をかすめた。
あれは春を売っているが、なんだかニュアンス的にはこちらも同じような意味合いな気がする。
勝手に下世話な想像を膨らませていると、若旦那が爆弾発言を事もなげに放ってみせた。
「ああ、夜を買いに来た。二晩……いや三晩か。三晩ほど融通してくれ」
「えっえっえっ」
「……なんで百面相してるんだ?」
夜売りと若旦那を見比べて、なんなら失礼にも交互に指をさしてまごついていると。どうやらピンと来たらしい夜売りが急に大声で笑ってみせた。
ヒィヒィと苦しそうに腹を……否、蛇腹を抱えておかしそうに笑っている。
これにはさすがの若旦那も眉根を寄せて、意味が分からないという顔を浮かべていた。
爆笑の理由はおそらく夜売りという言葉の意味を勘違いした自分に対してだろうが、なぜ夜売りという名の職なのかは未だに分からないので、恥ずかしさを押し殺して彼女のタネ明かしを待つ。
「アハハ、あーおっかしい。若旦那、あなた裏世界についてこの子にちゃんと説明した?」
「……」
「してないのね」
気まずそうに視線を逸らした若旦那に、まだ引かない笑いの波をこらえながら。夜売りはおもむろに店の窓まで行くと、閉まっていた雨戸をあけてみせた。
途端に強い西日が差し込んでくる。乱反射する光の粒が薄暗い室内を飛び交って、ちりちりと眩く輝く。若旦那がすうと目を細めて、そうして思い出したように口を開いた。
「ああ、そういえば言ってなかったな」
「何を?」
「この世界には夜が訪れないこと」
「……!」
言われて己も気づく。
そういえば自分がここに来た時にも、太陽はもうすぐ沈みきるかという所まで来ていたはずだ。
ばけものから逃げ回っていたあの時からもう体感で二時間は優に経っているのに、いまだに夕陽が顔を覗かせていた。
かの有名な走れメロスでは「少しずつ沈んでゆく太陽の十倍も早く走った」と太宰が書いているが、もしシラクスの市が裏世界にあったなら。
メロスはきっと鼻歌まじりにのろのろ歩いても、竹馬の友セリヌンティウスの待っている邪知暴虐の王の元へたどり着けただろう。
弟子のフィロストラトスだって、もうちょっとゆっくり来てよかったんですよくらいは言ってのけたかもしれない。
夜が来ない。
この世界では昼夜の代わりに、朝焼けと夕焼けが代わり番子にぐるぐると巡っているのだと若旦那は言った。まるで白夜のようだ。
「夜売りの姉御は、夜を切り取って売ってるんだ。堝々を抜けて、螺千城の外まで夜を採りに行って、それを上層に住んでる奴に売ってる。だから夜売り」
「意外と結構な需要があるのよ。おかげさまで儲けさせて貰ってるわ」
ふふん、と得意気に夜売りが笑った。カウンターに差し出された小さな小瓶に、とぷりと黒くねばついた何かが揺れている。
液体だか気体だか判別できないそれが、一晩分の夜なのだそうだ。
夜売りはその横にさらに二つ小瓶を並べた。使用用途がわからないそれを若旦那は三晩所望している。
「怪奇は闇夜が好きだものね」
「カイキ?」
「私達みたいな人間じゃない者の総称よ。怪しくて奇妙なものを人間がそう呼ぶの」
「へぇ……」
化け物や妖怪に属するたぐいのものを怪奇と呼ぶのならば、彼らが闇夜を愛するのはなんとなく納得できる。
しかし彼らが夜の訪れない裏世界に住んでいるのは不思議だった。
表世界では暗闇の夜は毎度やってくるのに。
電気が通うようになってからは随分と明るくなってはいるものの、地球がくるりと一周して影になる部分は変わらずやってくる。
にもかかわらず、彼らは夜の訪れないこの世界に住まうらしい。
現にこうして切り売りする者も買う者もいるのだから、わざわざ買わなくとも済む表に住めばよいのにと漠然と思った。
「三晩で六銭でいいわよ若旦那。ちょっとオマケね、お得意さんだから」
「わかった。大粒砂金でいいか?」
「それはやめて。お釣りが用意できないわ。緑青にして頂戴」
「ちぇ、これで交換したの失敗だったな……金額がデカすぎて一向に捌けやしない」
財布から取り出した親指の第一間接ほどある大きな金塊をいそいそと仕舞って、若旦那は布で包まれた緑青らしきものをカウンターに置くと小瓶を受け取った。
購入を終えてお茶の残りを飲み干すついでに歓談に花を咲かせてから、若旦那はようやく席をたつ。
「長居して悪かったな、夜売りの姉御。美袋、お暇しよう」
「またきてね若旦那。美袋くんも」
「は、はぁ。どうも」
「螺千城に二度も足を運ばない方がいいぞ。こんなところに来るのは人生一度で良い」
「それはそう。仰る通り!」
からりと明るく、真昼のように夜売りは笑った。
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【日記06】螺千城の話---累卵之危02
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世界には裏と表があるのだと若旦那は言った。
表が人間の世界、裏がばけものの世界だそうだ。
……いやはや白昼夢から全く抜け出せていない。漫画やアニメーション作品の向こう側の世界に自分は立っているらしい。
たまに、本当にごくまれに。自分のような事情を知らない人間が裏世界に迷い込んでしまうのだと若旦那はつづけて言った。
先に説明してくれた通り、大半の場合はそうだと気付かずに表世界へと抜け出せるのだが、これまたごくまれに抜け出せないケースがあるらしい。己がそうだ。運が無かった。
神秘に触れたのだと言っていたが、おそらくそれに関連する言葉なのだろう。
「ここは螺千城って名がついてる裏世界の一角なんだ」
「ラゼンジョウ?」
「螺旋の螺に───いや、いいか。誰がこの街の名を付けたのかは俺も知らないし、そもそもこの漢字で綴りがあっているのかも定かじゃない。とにかくそう呼ばれてる区画のひとつ」
「若旦那はその、ここでの暮らしは長いのか」
「七つの頃からだ」
「な、ななつ……」
小学校の低学年だ。十の半ばを迎えているなら相当の年数こちらに居る事になる。
若旦那の背に隠れながらおっかなびっくり街を観察するうち、お世辞にも治安がいいとは呼べない地区であることはなんとなく分かった。こんなところで七つの頃から。
百歩譲ってばけものがいることを除いても、排水やら配線やらが現世とは全く異なる。まるでスラム街の様相を成していた。
住むところが無いならば増やしてしまえと際限なく好きなだけ増築を繰り返したような、建築基準を無視した住宅に、火災の危険性をろくすっぽ考えていないであろう装飾や電灯が絡みついている。
縦に横にどんどん連なる家はいつ崩れても可笑しくない積み木を思わせた。
もし震災が来たら終わりだこの街は。
赤い提灯がゆれるのをぼんやりと眺めながら、ようやくこの街とよく似た景観の地域名を思い出していた。
九龍城砦。
城塞跡地に建てられていた巨大なスラム街。東洋の魔窟、かつてのアジアン・カオスの象徴的存在。
「ここって、もしかして香港?」
「そんなわけないだろ。裏世界だよ」
そうして冒頭の説明がなされた。
裏世界。現世とは異なる場所。かくりよ。にわかには信じがたいが、ばけものの存在が拾いたくもない信憑性を嫌でも発揮していた。
「なあ若旦那、どこに向かってるんだ」
「堝々のもうちょっと先のあたり」
「知らない……」
「だろうな」
カガ、と言われて思いつくのは大日本帝国海軍の航空母艦の加賀くらいだ。
この街だってまさか船は座礁していないだろうし、そもそも同船はミッドウェー海戦で沈没している。
とにかくその堝々とかいう場所に若旦那は用事があるらしかった。
「普段は瓦卵堂まで行くことは少ないから、用事をまとめて持ってきちまったんだ。悪いな美袋。しばらく付き合って欲しい」
「いや、送って貰ってる身で文句は言えないけど……」
ガランドウも聞いたことのない地名だった。まるで日本の地名らしくないのに、響きだけはどこか日本語らしい。
ラゼンジョウはいったい何区画に分かれているのだろう。全貌が全く分からない。
ネオン看板に並ぶ文字は日本語ではあるのだが、時折よくわからない文字が紛れ込んでいることもあった。
そのたびに若旦那があれはナントカだこれはナントカだと説明を挟んでくれたが、すべて右から左へすり抜けていった。脳が理解を拒否している。
傘を差して先を往く若旦那の背にそうっと隠れるように歩いていると、ばけものたちに奇異の目で見られる事は少なくなった。
ちらと視線を寄越されることはあるが、それだけだ。手を伸ばしてちょっかいをかけようとしてくる輩は目に見えて減っている。
逃げ回っていた時と全然違う。最初に降り立った場所ではそこらじゅうのばけものが一斉にこちらを覗き込んで来たから心臓が止まるかと思った。
ばけものとすれ違うと、たまに若旦那はあいさつ代わりに傘を持ち上げたり軽く頭を垂れて会釈をしたりとよくコミュニケーションをとっているのが見てとれた。
交友関係がそれなりにあるらしい。人間は残念ながら一人もすれ違わなかったが。
「若旦那、今のも顔馴染みか?」
「そんなところだ。この辺は特に得意先が多い。店やってるから、それの延長線上だな」
「へえ、こんなに若いのに店を?」
「螺千城で歳はあんまりアテにならないぞ」
確かに。自分の培ってきた二十数年あまりの常識はこの街で通用しそうにない。七つの頃からここにいれば染まり切っているのだろう。
この歳で店を持っていても別段おかしなことではないのかもしれない。
見るものすべてが見たことのない景色にすっかり目を奪われていると、若旦那が急に立ち止まったのでしたたかに鼻をぶつけてしまった。
「いて」
「ついた、ここが目的地の……大丈夫か?」
「だ、大丈夫だ」
「ならいいけど」
鼻をさすっている自分を怪訝そうに見てから、呼び鈴を握って適当に揺らしている。
若旦那はあくびをひとつこぼして目尻に浮いた涙を指で弾いていた。リラックスしている彼に対して、自分は所在なさげに突っ立っているしかない。
りんりん、と高い音のあとに扉の向こうから何か引きずるような音がする。
可愛らしいドアベルの音と共に現れたのは、やっぱりばけものだった。美人のばけものだ。人間じゃないと嬉しくない。
身の丈3メートル近くありそうな長身の、かなりの美貌をもつ女だった。
細かな刺繍の入った薄いフェイスベールで口許を密やかに隠しているがそれでもよく分かる、大きな瞳と厚い唇。一直線の高い鼻筋。
顔だけなら文句の付けようもなく百点満点なのだが、白魚のような極め細やかで美しい肌……の下のほう、下半身にびっしりと。蛇のようになめらかな光沢をもつ鱗が生えている。というか足が無い。
ギリシア神話のラミアーを思わせる大蛇の下腹部が足の代わりにくっついていた。減点方式を採用すると顔で稼いだ百点が消し飛んでしまう。加点方式で行きたいところだ。
「夜売りの姉御。久方ぶり」
「あら、若旦那じゃないの。ご機嫌いかが?」
「ボチボチってところだ」
おはいんなさい、と少し大きく扉が開かれて、そうして夜売りと呼ばれた女のばけものは初めてこちらを認識したようだった。
睫毛の長い瞳が開かれて、瞳孔が細長くなる。蛇に睨まれた蛙の気分だった。蛇のような容姿をしているから尚更のこと。
「珍しいわね、若旦那がお友達を連れてくるなんて」
「一般人だ。螺千城に迷い込んだらしい」
「あらまあ。よりにもよって螺千城に? よく食べられなかったこと」
「全くだ」
「たっ、食べ……!?」
聞こえてきた単語に思わず聞き返せば、クスクス夜売りが笑う。どうやら揶揄いをこめた冗談だったようだ。まったくもって冗談に聞こえない。
内心冷や汗をかきながら若旦那も人が悪いなと横目に見れば、仏頂面をした若旦那の口元が緩くほぐれて、微かに笑った気配があった。
え、と思って隣を見ると既にいつもの無表情に戻っている。
夜売りは茶と茶請けを出してくれた。
しかし口に運ぼうとした瞬間、どこかで聞きかじった知識が邪魔をする。異界のものを口にしてはならぬという迷信があった気がする。
ぴたりと手を止めたのが失礼だったろうかと、おずおず視線を上げれば。夜売りは微笑んでいた。
「黄泉竈食ひを気にしてるのね。感心感心」
「ヨ……?」
「よもつへぐい。黄泉の国の穢れた食べ物を食べること。別に裏世界のモンを食っても表世界に帰れないってことは無いぞ」
湯呑みに口をつけながら若旦那が言う。唇を湿らせてから、出された焼き菓子を何口かにわけて頬張っているせいかモゴモゴと途中で声が不明瞭になった。
遠い昔の学生時代に習った古い記憶で、古事記や日本書紀の範囲にそんな類のワードがあったなと記憶を掘り返す。掘り返すついでに、自分も若旦那に倣って湯吞みに口をつけた。
ずず、と茶を口に含んだ瞬間、夜売りが気色ばんだ声で歓声を上げる。
「しめた、飲んだわね! これであなたも螺千城の住民よ!」
「えっ!? あっ、熱っ!?」
「……姉御。勘弁してやってくれ。まだここにきて半日も経ってない」
「うふふ。冗談よ、冗談」
また冗談だったらしい。騙された。
「こういう人なんだよ」と若旦那は慣れているのか然して驚きもせずに、二つ目の焼き菓子に手を伸ばしている。
吹き出しそうになった茶をなんとか喉奥に追いやり、飲み下してようやく一息ついた。この短時間でどっと疲れた気がする。
夜売りも自分の茶を啜りながら、カウンター越しに若旦那に向き直った。
「それで今日はどうしたの。買いに来たの?」
「そういえば夜売りって」
「文字通りよ。夜を売ってるの」
「よ、夜を……売って……?」
例の二文字が頭をかすめた。
あれは春を売っているが、なんだかニュアンス的にはこちらも同じような意味合いな気がする。
勝手に下世話な想像を膨らませていると、若旦那が爆弾発言を事もなげに放ってみせた。
「ああ、夜を買いに来た。二晩……いや三晩か。三晩ほど融通してくれ」
「えっえっえっ」
「……なんで百面相してるんだ?」
夜売りと若旦那を見比べて、なんなら失礼にも交互に指をさしてまごついていると。どうやらピンと来たらしい夜売りが急に大声で笑ってみせた。
ヒィヒィと苦しそうに腹を……否、蛇腹を抱えておかしそうに笑っている。
これにはさすがの若旦那も眉根を寄せて、意味が分からないという顔を浮かべていた。
爆笑の理由はおそらく夜売りという言葉の意味を勘違いした自分に対してだろうが、なぜ夜売りという名の職なのかは未だに分からないので、恥ずかしさを押し殺して彼女のタネ明かしを待つ。
「アハハ、あーおっかしい。若旦那、あなた裏世界についてこの子にちゃんと説明した?」
「……」
「してないのね」
気まずそうに視線を逸らした若旦那に、まだ引かない笑いの波をこらえながら。夜売りはおもむろに店の窓まで行くと、閉まっていた雨戸をあけてみせた。
途端に強い西日が差し込んでくる。乱反射する光の粒が薄暗い室内を飛び交って、ちりちりと眩く輝く。若旦那がすうと目を細めて、そうして思い出したように口を開いた。
「ああ、そういえば言ってなかったな」
「何を?」
「この世界には夜が訪れないこと」
「……!」
言われて己も気づく。
そういえば自分がここに来た時にも、太陽はもうすぐ沈みきるかという所まで来ていたはずだ。
ばけものから逃げ回っていたあの時からもう体感で二時間は優に経っているのに、いまだに夕陽が顔を覗かせていた。
かの有名な走れメロスでは「少しずつ沈んでゆく太陽の十倍も早く走った」と太宰が書いているが、もしシラクスの市が裏世界にあったなら。
メロスはきっと鼻歌まじりにのろのろ歩いても、竹馬の友セリヌンティウスの待っている邪知暴虐の王の元へたどり着けただろう。
弟子のフィロストラトスだって、もうちょっとゆっくり来てよかったんですよくらいは言ってのけたかもしれない。
夜が来ない。
この世界では昼夜の代わりに、朝焼けと夕焼けが代わり番子にぐるぐると巡っているのだと若旦那は言った。まるで白夜のようだ。
「夜売りの姉御は、夜を切り取って売ってるんだ。堝々を抜けて、螺千城の外まで夜を採りに行って、それを上層に住んでる奴に売ってる。だから夜売り」
「意外と結構な需要があるのよ。おかげさまで儲けさせて貰ってるわ」
ふふん、と得意気に夜売りが笑った。カウンターに差し出された小さな小瓶に、とぷりと黒くねばついた何かが揺れている。
液体だか気体だか判別できないそれが、一晩分の夜なのだそうだ。
夜売りはその横にさらに二つ小瓶を並べた。使用用途がわからないそれを若旦那は三晩所望している。
「怪奇は闇夜が好きだものね」
「カイキ?」
「私達みたいな人間じゃない者の総称よ。怪しくて奇妙なものを人間がそう呼ぶの」
「へぇ……」
化け物や妖怪に属するたぐいのものを怪奇と呼ぶのならば、彼らが闇夜を愛するのはなんとなく納得できる。
しかし彼らが夜の訪れない裏世界に住んでいるのは不思議だった。
表世界では暗闇の夜は毎度やってくるのに。
電気が通うようになってからは随分と明るくなってはいるものの、地球がくるりと一周して影になる部分は変わらずやってくる。
にもかかわらず、彼らは夜の訪れないこの世界に住まうらしい。
現にこうして切り売りする者も買う者もいるのだから、わざわざ買わなくとも済む表に住めばよいのにと漠然と思った。
「三晩で六銭でいいわよ若旦那。ちょっとオマケね、お得意さんだから」
「わかった。大粒砂金でいいか?」
「それはやめて。お釣りが用意できないわ。緑青にして頂戴」
「ちぇ、これで交換したの失敗だったな……金額がデカすぎて一向に捌けやしない」
財布から取り出した親指の第一間接ほどある大きな金塊をいそいそと仕舞って、若旦那は布で包まれた緑青らしきものをカウンターに置くと小瓶を受け取った。
購入を終えてお茶の残りを飲み干すついでに歓談に花を咲かせてから、若旦那はようやく席をたつ。
「長居して悪かったな、夜売りの姉御。美袋、お暇しよう」
「またきてね若旦那。美袋くんも」
「は、はぁ。どうも」
「螺千城に二度も足を運ばない方がいいぞ。こんなところに来るのは人生一度で良い」
「それはそう。仰る通り!」
からりと明るく、真昼のように夜売りは笑った。
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