RECORD
Eno.102 不明門通 辰巳の記録
▼
「待った」
「ぐぇっ、」
若旦那が首根っこを掴んで後ろに思い切り引っ張ったものだから仰け反って尻餅をついてしまった。
どたんと後ろにひっくり返った自分に目もくれず、若旦那はさしていた傘を前側に倒して盾のように塞ぎながら、道の向こうを睨みつけている。
「ど、どうしたんだ」
「おかしい、死骸地から累卵道に出るまでにこんな曲がり角はなかったはずだ」
何の変哲もない、少し薄暗い路地のこと。
架線があちこちに張り巡らされた蜘蛛の巣のような場所を抜けていくうち、若旦那がぴたりと立ち止まったのはひとつの角だった。
通ったことのない自分には知りようもないが、若旦那曰く、ここに道は無かったそうだ。
「覚え間違いとか、勘違いの可能性は?」
「無い。断言できる。螺千城の何本かは路の構造ごと変わるカラクリみたいなところもあるが、少なくともこの道はその類のものじゃなかった」
「じゃあどうして……」
「そうさな、これは……」
言い澱んだ若旦那は言ったん言葉を切ると、その辺に落ちていた空缶を拾い上げて、壁に手を触れないように注意を払いながらズブリと差し込んだ。
最初は隙間に差し込んだかと思った。柱と柱の間のごくわずかに空缶が差し込めるような隙間があるのだとばかり思っていた。
違う。
違う。違う。違う。これはなんだ。にゅぐにゅぐと空缶が壁に自然に飲み込まれていく。
アルミのひしゃげる嫌な音を残して空缶は見るも無残なほどに圧縮されると、そのまま壁の向こうに消えていった。
「うわあああ!! なん、なっ……なんだこれ!!」
「……やられたな」
尻餅をついた体勢のまま必死に足で地面を蹴って壁から離れ、ついで地面も危ないのではと思い至って爆速で立ち上がる。
なんだこれは。なんなんだ。空缶が沈んでいった箇所はヒクヒクと薄桃色の肉塊のようなものが覗いていて、しばらくすると壁の一部として同化してしまった。
若旦那が数歩先を言ってすぐさま戻って来る。「袋小路になってる」と静かに言った。
「禍口だ」
「マ、マガグチ? ガマグチではなく?」
「それは小銭を食う蟇口財布の方。これは禍口。よく螺千城の住民を食べてる怪奇だ」
「食べてるだって!」
夜売りの冗談はやっぱり冗談じゃなかったんだ。こんなのがうろついているなんてそれこそ冗談じゃない。
立っているのも嫌になって来て、若旦那の羽織りを皺が寄るほど握り締めて爪先立ちになる。
靴裏の接地面積を少なくしたところで果たして意味があるのかはさておき、心の余裕は雀の涙ほど確保できた。つまるところ焼け石に水である。
「このままここに居ると」
「居ると?」
「消化されるだろうな」
「うわあ! た、たたた、助けてくれ若旦那! 何かあるんだろう、この窮地を抜け出す方法が!」
「無い事は無いが……」
「無いけどなに!? 早く!」
「美袋、アンタ金あるか」
地獄の沙汰も金次第だった。閻魔がこの状況下でまさか足元を見てくるとは思わなかったが、正直命が助かるならなんだっていい。
一も二もなく必死に頷くと、若旦那は懐からタコ糸のついた飴を取り出した。
溶けないように薄紙で包まれていた部分を丁寧に外して、若旦那は紐の部分を持たせてくれる。
先端についている赤い着色料の透き通った飴が、夕焼けを吸ってぱちぱちと路地の地面に反射した。
「これ一つ作るのにもかなりの工程がかかるし、その分値も張る。残念ながら生産がとにかく難しくてな、悪いが美袋に買い取ってもらうぞ。こっちも慈善事業じゃないんでね」
「この飴玉が……? これ紐飴だろ、駄菓子だぞ」
「ただの紐飴じゃない。駄菓子屋不明門堂の神秘菓子がひとつ、穴抜けの紐飴」
あけずどう。しんぴがし。あなぬけのひもあめ。店名とそこで取り扱う品名だろうか。
若旦那が店を持っているのだと会った当初に聞いて知っていたが、どうやら駄菓子屋を営んでいるようだった。
この神秘渦巻くラゼンジョウで売っている菓子だ、ただの菓子でないと言われれば信じるしかない。
さて一体いくら吹っ掛けられるのだろう。
「ひとつ壱萬圓な」
「えぇ……?」
拍子抜けしてしまう。命の値段が一万円ぽっちはちょっと。もっと高いかと思っていた。
随分と安く見積もられた命だが、案外この世界における人間の価値なんて得てしてそんなものなのかもしれない。
さらば渋沢栄一と財布の彼に別れを告げれば、若旦那は「確かに、毎度あり」と最初にやった窓越しの商売と同じように言って懐に金を仕舞った。
「口に含んだら紐を一気に抜け。……あと羽織りも放せ。皺が寄る。この飴で帰れるのは一人だけだから」
「若旦那の分は……?」
「それが俺の分だったんだよ」
くしゃりと自分が握り締めてしまった箇所を軽く撫で直して、若旦那はさあ行った行ったと俺を急き立てた。
若旦那の飴を横取りしてしまったが、若旦那自身はどうやって帰るのだろう。
懐から飴とは異なる、別の菓子らしいものを取り出すのが見えた。同時に傘を閉じて、ゆるりとその石突を地面に打ち付ける。
カァンと木製のそれが当たる甲高い音が路地に響いた。
「掻き曇り、夕立つ浪の荒ければ───浮きたる舟ぞ、しづ心なき」
湿気た雲の匂いがする。雨の気配が漂ってくる。
空は相変わらず夕焼けを湛えているのに、どうしてか黒々と染まった雨雲がどこからか流れて来た。
若旦那の呟くそれが新古今和歌集に載っている紫式部のそれだと気づく。つい最近大河ドラマでやっていた一節で出て来ていたはずだ。
「知らざあ言って聞かせやしょう。さあさあ御覧じろ、禍口どの。ねね婆の秘蔵っ子、不明門通辰巳が御相手つかまつる」
後ろ髪を引かれながら言われるがまま頬張れば、カロンとした三角形の飴が歯に当たった。
甘味料特有のあまったるい人工的なイチゴの味が口いっぱいに広がる。
ぐっとそのままついていた紐を抜くと、テレヴィジョンの電源を切った時のように景色はぷっつり途切れて。
気づけばどこかやわらかな賑わいを見せている、繁華街にぽつんと一人立っていた。
▼
「あ、あれ……」
「その飴を年若い男から受け取りませんでしたか」
握り締めた紐と、口の端から覗くイチゴの飴を目敏く見られて声をかけられる。
振り返れば割烹着姿の女性が立っていた。ただの女性でなく、頭部に二つ獣を思わせる耳がある。怪奇だった。
そうだと頷けば女性はしずしずとこちらに歩いてきて、観察するように至近距離で顔を上げるのでたじろいでしまう。じろりと不躾な目に思わず視線を逸らして頬を掻いた。
「若旦那様のお客人とお見受けいたしました。こちらへ」
返事をする暇もなく、そのまま女性は民家らしき場所の座敷へと引っ込んでいく。
実に鄙びた古風な造りの日本家屋には、煌びやかな赤い提灯がいくつか連なって並んで吊るされていた。
その屋根の間にはこれまた古風なデザインの看板で『堂門明不』と掲げられている。
「ど、どうもん……めいふ……」
「不明門堂だ。アケズドウ。逆から読むんだよ」
「うおっ、」
若旦那が真後ろに立っていた。立っていたというのも語弊がある。
若旦那はふわりふわりと開いた傘から降り立ってくるところだったからだ。
落下傘よろしく、あるいはロンドンの桜通り十七番地にやってきた先生よろしく。重力を感じさせない着地でトンと片足から降り立った。
山吹色の派手な羽織りは肩から外して持っている。下に着ていた白いパーカーはところどころ埃で汚れはしていたが、五体満足で怪我を負った様子はなかった。
「無事だったのか若旦那!」
「当たり前だろう、螺千城で禍口に吞まれるなんて日常茶飯事だぞ」
「聞きたくなかったなそれは……」
今更ながらこんな街に迷い込んでしまったことに恐怖を覚える。
左目を覆うようにぺたりと貼られた護符を指で搔きながら。
会話を聞きつけたのだろう、店からまた出て来た獣耳の女性の怪奇に、若旦那はゆるりと手を挙げた。
「今戻った、ミケ。仔細無いか」
「お帰りなさいませ若旦那様。特にはございません。お留守の間の不明門堂の売れ行きは───」
「ああ、いやいい。あとで聞く」
「左様で」
すん、と口を閉じた女性は次いでこちらを見た。
「そちらのお客人に茶をお出ししましょうか」
「茶はもったいないだろ。茶葉も少なかったはずだ。そこの棚から出してやってくれ」
「承知いたしました」
ミケと呼ばれた女性の怪奇が耳を揺らしながら店の商品棚から透明な瓶を一つ取る。
そのまま盆にドンと載せられたラムネ瓶にぎょっとしたものの、ありがたく受け取った。
ここに来てからいろいろと飲み食いしたが、緊張からか今が一番喉が渇いていた。
開けるのに苦戦していると若旦那がコンと栓を叩いてビー玉を落としてくれた。
しゅわっとした音と共に泡がせりあがって来る。
「あ、しまった、こぼれた」
「ラムネなんて久しぶりだ……これが若旦那の店?」
「まあな。厳密には俺の店じゃなくて、ねね婆の……まあいいか。ちょいと別ん所の人の店を俺が回させて貰ってる」
若旦那はそう言って、店のすぐ横に立て掛けてある看板を指さした。
表世界への持ち帰り及び、表世界での飲食厳禁───と書かれている。思わずラムネと若旦那を交互に見たが、味は至って普通のラムネだった。
並ぶ商品もほとんどが安い駄菓子で構成されていて、価格帯は実に庶民的だ。
「良心的な店なんだな」
「その奥だよ」
若旦那が見せたいものは別にあるらしい。
顎でしゃくってみせた先をさらに探せば、目を皿にして注視しなかれば見つからないほど小さな米粒大の字で、こう書いてあった。
購入・飲食に関するあらゆる事故につきましては、一切の責任を負いかねます。
「悪徳店だ!」
「螺千城で買い物する時ゃ気をつけな。特にこういう店は多いから」
ふっと若旦那が笑ったように見えた。目の錯覚だったかもしれない。
「ここに、七つの頃から?」
「七つの頃から」
店を眺める。こんな、マガグチのような怪奇が、他にもいっぱい危険な怪奇がひしめくなかを。
たった七つの頃から。
夜売りや店で出会った者達のような気の良い奴等ももちろんいるのだろう。けれどここは常に危険と隣り合わせなのも決して嘘ではない。
螺千城は、そういうアウトロー達と弱い者達が結束して生きている街なのだと、この短い観光のなかでも嫌というほど感じさせられた。
組み上げられた数多の家々の内、怪奇達の敷いた独自のルールが息づく区画。螺千城。
「生きていくのに不便は無いのか?」
「不便は不便だが、住めば都さ。意外とみんな上手くやりくりしてるよ」
「死にそうになった経験は」
「一度や二度じゃないが、まあ、それも含めてこの街だ。美袋が会ったのは、この街でも上澄みの連中だよ。人間に優しい怪奇の方がここでは少ない。運が良かったな」
「なあ、若旦那───」
「わかだんなー!」
自分の言葉を遮って、角の生えた小鬼のような元気な子が駆けて来た。
若旦那の腰にも満たない身長の、おそらく子供の怪奇が若旦那の羽織に縋ってぴょんぴょんと跳ねている。
「わかだんな、ヨル買ってきてくれた!?」
「ああ、ほら。落とすなよ。高いんだからなそれ」
「やったぁ! ありがとう!」
若旦那が懐から差し出した小瓶の、どろっとした中身が攪拌されて夜が混ざる。
小鬼は大事そうにそれを受け取って、ぎゅうと手の中に閉じ込めた。
嬉しそうに走ってゆく背を眺めながら、若旦那は「近所の子供連中で花火をするんだと。小遣い集めてきたんだ」とぼそりと呟いた。
この街で暮らす怪奇達は、あまり表世界の話をしない。
表の世界には夜がすぐそばにあるのに、ここではみなわざわざ金を出して夜を買う。
電話だってあんなボロっちい昭和のものでなくたって、表の世界にいくらでも最新鋭のスマートフォンがあるだろう。
電気だってその辺から架線を伝って無理に引っ張ってこなくとも、表側で好きなだけ使えるのに。
「───なあ、若旦那。どうしてこの街の住民は、表世界に行かないんだろう」
「……当たってるぞ。良かったな」
「へ、」
ラムネ瓶の奥でビー玉にぱっちりと瞳が浮かんだ。
透明なそれが眼球のようにじっとこちらを見てくるのに気づいて悲鳴を上げて手放せば、カシャンとラムネ瓶が地面と当たって砕ける。
「う、うわ、なんだよいきなり!」
「記念だ。持っていきな美袋。どうせ今交換したって二瓶は飲みきれないだろう」
ラムネ瓶の破片の中からぎょろっとするビー玉を拾い上げて若旦那が握らせた。
ほとんど飲み干していたラムネを一滴纏ったそれが、手のひらの上でころころと回っている。
おそらく当たりが出たらもう一本のたぐいだったのだろう。けれど持ち帰り厳禁のルールがふと頭をよぎった。
「さっき持ち出し禁止だって、」
「どうせ減衰で無くなるさ」
減衰が何なのか、若旦那に問うても答えて貰えなかった。
そのまま手を引かれて店の裏手に連れていかれる。
店の裏手に回れば、お稲荷様を祀っているちいさな社があった。こぢんまりとした鳥居は塀を越えることもなく、人目につかぬ見つからない場所にひっそりと佇んでいる。
ここが表の世界と裏の世界を繋いでいる境界線らしい。出入口は各所にあるらしいが螺千城にどれくらいの出入口が開いているのかは誰も知らないようだった。
若旦那もここを含め出入口は数か所しか知らず、その上いつまでも開いているとは限らないのだそうだ。
「ここは比較的長期で開いてるんだ。アンタみたいに神秘に触れちまった連中が螺千城に直通する通用口としてよく利用してる」
「こんなところに用があって来る奴も居るのか……」
「まあな。ごくたまに閉じる事もあるにはあるが、ここ数年ばかしは開きっぱなしだよ。渡っている最中に閉じるようなことが無ければ無事に帰れるさ」
「なんで帰る直前になって脅すんだよ」
もしも渡っている最中に出入口が閉じてしまったらどうなるのだろう。あまり想像したくない。
そこから先にイメージが及ぶ前に意図して考えるのを止めておいた。
「若旦那、ここまでありがとう」
「別に礼を言われるほどのことでもない。意外といるんだよ。美袋みたいな奴は」
「そうなのか?」
「大抵のケースは裏世界に気づく前に素通りするけどな。神秘に触れるのは稀」
「じゃあやっぱりレアケースじゃないか」
鳥居をくぐる。乳白色が視界の端から追って来て、目を開いているのにもかかわらず街の風景が見えなくなる。
と同時に、持っていたビー玉がかぁっと熱くなった。
ばらばらと表層が剥がれるようにして浮いていた目玉模様が見えなくなる。透明なころりとした、ただの何の変哲もないビー玉になってしまった。
「わ、若旦那、」
これが減衰なのか、と聞こうとして、しかし視界はミルクを垂らしたように白くかすんでしまって見えなかった。
代わりに、目の前を歩いている若旦那の声だけがこだましている。声色は少し寂しそうに聞こえた。
「先の質問に答えよう、美袋。怪奇は表の世界に出ていけないんだ。向こうの世界を乱してしまうし、運が悪けりゃ消えちまう」
「え、」
「だから俺はそっちに行けない。……さよなら美袋。弟によろしくな」
───。
何かを言うよりも先に、目を覆っていた白霧が晴れて来た。
▼
【日記08】螺千城の話---累卵之危04
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「待った」
「ぐぇっ、」
若旦那が首根っこを掴んで後ろに思い切り引っ張ったものだから仰け反って尻餅をついてしまった。
どたんと後ろにひっくり返った自分に目もくれず、若旦那はさしていた傘を前側に倒して盾のように塞ぎながら、道の向こうを睨みつけている。
「ど、どうしたんだ」
「おかしい、死骸地から累卵道に出るまでにこんな曲がり角はなかったはずだ」
何の変哲もない、少し薄暗い路地のこと。
架線があちこちに張り巡らされた蜘蛛の巣のような場所を抜けていくうち、若旦那がぴたりと立ち止まったのはひとつの角だった。
通ったことのない自分には知りようもないが、若旦那曰く、ここに道は無かったそうだ。
「覚え間違いとか、勘違いの可能性は?」
「無い。断言できる。螺千城の何本かは路の構造ごと変わるカラクリみたいなところもあるが、少なくともこの道はその類のものじゃなかった」
「じゃあどうして……」
「そうさな、これは……」
言い澱んだ若旦那は言ったん言葉を切ると、その辺に落ちていた空缶を拾い上げて、壁に手を触れないように注意を払いながらズブリと差し込んだ。
最初は隙間に差し込んだかと思った。柱と柱の間のごくわずかに空缶が差し込めるような隙間があるのだとばかり思っていた。
違う。
違う。違う。違う。これはなんだ。にゅぐにゅぐと空缶が壁に自然に飲み込まれていく。
アルミのひしゃげる嫌な音を残して空缶は見るも無残なほどに圧縮されると、そのまま壁の向こうに消えていった。
「うわあああ!! なん、なっ……なんだこれ!!」
「……やられたな」
尻餅をついた体勢のまま必死に足で地面を蹴って壁から離れ、ついで地面も危ないのではと思い至って爆速で立ち上がる。
なんだこれは。なんなんだ。空缶が沈んでいった箇所はヒクヒクと薄桃色の肉塊のようなものが覗いていて、しばらくすると壁の一部として同化してしまった。
若旦那が数歩先を言ってすぐさま戻って来る。「袋小路になってる」と静かに言った。
「禍口だ」
「マ、マガグチ? ガマグチではなく?」
「それは小銭を食う蟇口財布の方。これは禍口。よく螺千城の住民を食べてる怪奇だ」
「食べてるだって!」
夜売りの冗談はやっぱり冗談じゃなかったんだ。こんなのがうろついているなんてそれこそ冗談じゃない。
立っているのも嫌になって来て、若旦那の羽織りを皺が寄るほど握り締めて爪先立ちになる。
靴裏の接地面積を少なくしたところで果たして意味があるのかはさておき、心の余裕は雀の涙ほど確保できた。つまるところ焼け石に水である。
「このままここに居ると」
「居ると?」
「消化されるだろうな」
「うわあ! た、たたた、助けてくれ若旦那! 何かあるんだろう、この窮地を抜け出す方法が!」
「無い事は無いが……」
「無いけどなに!? 早く!」
「美袋、アンタ金あるか」
地獄の沙汰も金次第だった。閻魔がこの状況下でまさか足元を見てくるとは思わなかったが、正直命が助かるならなんだっていい。
一も二もなく必死に頷くと、若旦那は懐からタコ糸のついた飴を取り出した。
溶けないように薄紙で包まれていた部分を丁寧に外して、若旦那は紐の部分を持たせてくれる。
先端についている赤い着色料の透き通った飴が、夕焼けを吸ってぱちぱちと路地の地面に反射した。
「これ一つ作るのにもかなりの工程がかかるし、その分値も張る。残念ながら生産がとにかく難しくてな、悪いが美袋に買い取ってもらうぞ。こっちも慈善事業じゃないんでね」
「この飴玉が……? これ紐飴だろ、駄菓子だぞ」
「ただの紐飴じゃない。駄菓子屋不明門堂の神秘菓子がひとつ、穴抜けの紐飴」
あけずどう。しんぴがし。あなぬけのひもあめ。店名とそこで取り扱う品名だろうか。
若旦那が店を持っているのだと会った当初に聞いて知っていたが、どうやら駄菓子屋を営んでいるようだった。
この神秘渦巻くラゼンジョウで売っている菓子だ、ただの菓子でないと言われれば信じるしかない。
さて一体いくら吹っ掛けられるのだろう。
「ひとつ壱萬圓な」
「えぇ……?」
拍子抜けしてしまう。命の値段が一万円ぽっちはちょっと。もっと高いかと思っていた。
随分と安く見積もられた命だが、案外この世界における人間の価値なんて得てしてそんなものなのかもしれない。
さらば渋沢栄一と財布の彼に別れを告げれば、若旦那は「確かに、毎度あり」と最初にやった窓越しの商売と同じように言って懐に金を仕舞った。
「口に含んだら紐を一気に抜け。……あと羽織りも放せ。皺が寄る。この飴で帰れるのは一人だけだから」
「若旦那の分は……?」
「それが俺の分だったんだよ」
くしゃりと自分が握り締めてしまった箇所を軽く撫で直して、若旦那はさあ行った行ったと俺を急き立てた。
若旦那の飴を横取りしてしまったが、若旦那自身はどうやって帰るのだろう。
懐から飴とは異なる、別の菓子らしいものを取り出すのが見えた。同時に傘を閉じて、ゆるりとその石突を地面に打ち付ける。
カァンと木製のそれが当たる甲高い音が路地に響いた。
「掻き曇り、夕立つ浪の荒ければ───浮きたる舟ぞ、しづ心なき」
湿気た雲の匂いがする。雨の気配が漂ってくる。
空は相変わらず夕焼けを湛えているのに、どうしてか黒々と染まった雨雲がどこからか流れて来た。
若旦那の呟くそれが新古今和歌集に載っている紫式部のそれだと気づく。つい最近大河ドラマでやっていた一節で出て来ていたはずだ。
「知らざあ言って聞かせやしょう。さあさあ御覧じろ、禍口どの。ねね婆の秘蔵っ子、不明門通辰巳が御相手つかまつる」
後ろ髪を引かれながら言われるがまま頬張れば、カロンとした三角形の飴が歯に当たった。
甘味料特有のあまったるい人工的なイチゴの味が口いっぱいに広がる。
ぐっとそのままついていた紐を抜くと、テレヴィジョンの電源を切った時のように景色はぷっつり途切れて。
気づけばどこかやわらかな賑わいを見せている、繁華街にぽつんと一人立っていた。
▼
「あ、あれ……」
「その飴を年若い男から受け取りませんでしたか」
握り締めた紐と、口の端から覗くイチゴの飴を目敏く見られて声をかけられる。
振り返れば割烹着姿の女性が立っていた。ただの女性でなく、頭部に二つ獣を思わせる耳がある。怪奇だった。
そうだと頷けば女性はしずしずとこちらに歩いてきて、観察するように至近距離で顔を上げるのでたじろいでしまう。じろりと不躾な目に思わず視線を逸らして頬を掻いた。
「若旦那様のお客人とお見受けいたしました。こちらへ」
返事をする暇もなく、そのまま女性は民家らしき場所の座敷へと引っ込んでいく。
実に鄙びた古風な造りの日本家屋には、煌びやかな赤い提灯がいくつか連なって並んで吊るされていた。
その屋根の間にはこれまた古風なデザインの看板で『堂門明不』と掲げられている。
「ど、どうもん……めいふ……」
「不明門堂だ。アケズドウ。逆から読むんだよ」
「うおっ、」
若旦那が真後ろに立っていた。立っていたというのも語弊がある。
若旦那はふわりふわりと開いた傘から降り立ってくるところだったからだ。
落下傘よろしく、あるいはロンドンの桜通り十七番地にやってきた先生よろしく。重力を感じさせない着地でトンと片足から降り立った。
山吹色の派手な羽織りは肩から外して持っている。下に着ていた白いパーカーはところどころ埃で汚れはしていたが、五体満足で怪我を負った様子はなかった。
「無事だったのか若旦那!」
「当たり前だろう、螺千城で禍口に吞まれるなんて日常茶飯事だぞ」
「聞きたくなかったなそれは……」
今更ながらこんな街に迷い込んでしまったことに恐怖を覚える。
左目を覆うようにぺたりと貼られた護符を指で搔きながら。
会話を聞きつけたのだろう、店からまた出て来た獣耳の女性の怪奇に、若旦那はゆるりと手を挙げた。
「今戻った、ミケ。仔細無いか」
「お帰りなさいませ若旦那様。特にはございません。お留守の間の不明門堂の売れ行きは───」
「ああ、いやいい。あとで聞く」
「左様で」
すん、と口を閉じた女性は次いでこちらを見た。
「そちらのお客人に茶をお出ししましょうか」
「茶はもったいないだろ。茶葉も少なかったはずだ。そこの棚から出してやってくれ」
「承知いたしました」
ミケと呼ばれた女性の怪奇が耳を揺らしながら店の商品棚から透明な瓶を一つ取る。
そのまま盆にドンと載せられたラムネ瓶にぎょっとしたものの、ありがたく受け取った。
ここに来てからいろいろと飲み食いしたが、緊張からか今が一番喉が渇いていた。
開けるのに苦戦していると若旦那がコンと栓を叩いてビー玉を落としてくれた。
しゅわっとした音と共に泡がせりあがって来る。
「あ、しまった、こぼれた」
「ラムネなんて久しぶりだ……これが若旦那の店?」
「まあな。厳密には俺の店じゃなくて、ねね婆の……まあいいか。ちょいと別ん所の人の店を俺が回させて貰ってる」
若旦那はそう言って、店のすぐ横に立て掛けてある看板を指さした。
表世界への持ち帰り及び、表世界での飲食厳禁───と書かれている。思わずラムネと若旦那を交互に見たが、味は至って普通のラムネだった。
並ぶ商品もほとんどが安い駄菓子で構成されていて、価格帯は実に庶民的だ。
「良心的な店なんだな」
「その奥だよ」
若旦那が見せたいものは別にあるらしい。
顎でしゃくってみせた先をさらに探せば、目を皿にして注視しなかれば見つからないほど小さな米粒大の字で、こう書いてあった。
購入・飲食に関するあらゆる事故につきましては、一切の責任を負いかねます。
「悪徳店だ!」
「螺千城で買い物する時ゃ気をつけな。特にこういう店は多いから」
ふっと若旦那が笑ったように見えた。目の錯覚だったかもしれない。
「ここに、七つの頃から?」
「七つの頃から」
店を眺める。こんな、マガグチのような怪奇が、他にもいっぱい危険な怪奇がひしめくなかを。
たった七つの頃から。
夜売りや店で出会った者達のような気の良い奴等ももちろんいるのだろう。けれどここは常に危険と隣り合わせなのも決して嘘ではない。
螺千城は、そういうアウトロー達と弱い者達が結束して生きている街なのだと、この短い観光のなかでも嫌というほど感じさせられた。
組み上げられた数多の家々の内、怪奇達の敷いた独自のルールが息づく区画。螺千城。
「生きていくのに不便は無いのか?」
「不便は不便だが、住めば都さ。意外とみんな上手くやりくりしてるよ」
「死にそうになった経験は」
「一度や二度じゃないが、まあ、それも含めてこの街だ。美袋が会ったのは、この街でも上澄みの連中だよ。人間に優しい怪奇の方がここでは少ない。運が良かったな」
「なあ、若旦那───」
「わかだんなー!」
自分の言葉を遮って、角の生えた小鬼のような元気な子が駆けて来た。
若旦那の腰にも満たない身長の、おそらく子供の怪奇が若旦那の羽織に縋ってぴょんぴょんと跳ねている。
「わかだんな、ヨル買ってきてくれた!?」
「ああ、ほら。落とすなよ。高いんだからなそれ」
「やったぁ! ありがとう!」
若旦那が懐から差し出した小瓶の、どろっとした中身が攪拌されて夜が混ざる。
小鬼は大事そうにそれを受け取って、ぎゅうと手の中に閉じ込めた。
嬉しそうに走ってゆく背を眺めながら、若旦那は「近所の子供連中で花火をするんだと。小遣い集めてきたんだ」とぼそりと呟いた。
この街で暮らす怪奇達は、あまり表世界の話をしない。
表の世界には夜がすぐそばにあるのに、ここではみなわざわざ金を出して夜を買う。
電話だってあんなボロっちい昭和のものでなくたって、表の世界にいくらでも最新鋭のスマートフォンがあるだろう。
電気だってその辺から架線を伝って無理に引っ張ってこなくとも、表側で好きなだけ使えるのに。
「───なあ、若旦那。どうしてこの街の住民は、表世界に行かないんだろう」
「……当たってるぞ。良かったな」
「へ、」
ラムネ瓶の奥でビー玉にぱっちりと瞳が浮かんだ。
透明なそれが眼球のようにじっとこちらを見てくるのに気づいて悲鳴を上げて手放せば、カシャンとラムネ瓶が地面と当たって砕ける。
「う、うわ、なんだよいきなり!」
「記念だ。持っていきな美袋。どうせ今交換したって二瓶は飲みきれないだろう」
ラムネ瓶の破片の中からぎょろっとするビー玉を拾い上げて若旦那が握らせた。
ほとんど飲み干していたラムネを一滴纏ったそれが、手のひらの上でころころと回っている。
おそらく当たりが出たらもう一本のたぐいだったのだろう。けれど持ち帰り厳禁のルールがふと頭をよぎった。
「さっき持ち出し禁止だって、」
「どうせ減衰で無くなるさ」
減衰が何なのか、若旦那に問うても答えて貰えなかった。
そのまま手を引かれて店の裏手に連れていかれる。
店の裏手に回れば、お稲荷様を祀っているちいさな社があった。こぢんまりとした鳥居は塀を越えることもなく、人目につかぬ見つからない場所にひっそりと佇んでいる。
ここが表の世界と裏の世界を繋いでいる境界線らしい。出入口は各所にあるらしいが螺千城にどれくらいの出入口が開いているのかは誰も知らないようだった。
若旦那もここを含め出入口は数か所しか知らず、その上いつまでも開いているとは限らないのだそうだ。
「ここは比較的長期で開いてるんだ。アンタみたいに神秘に触れちまった連中が螺千城に直通する通用口としてよく利用してる」
「こんなところに用があって来る奴も居るのか……」
「まあな。ごくたまに閉じる事もあるにはあるが、ここ数年ばかしは開きっぱなしだよ。渡っている最中に閉じるようなことが無ければ無事に帰れるさ」
「なんで帰る直前になって脅すんだよ」
もしも渡っている最中に出入口が閉じてしまったらどうなるのだろう。あまり想像したくない。
そこから先にイメージが及ぶ前に意図して考えるのを止めておいた。
「若旦那、ここまでありがとう」
「別に礼を言われるほどのことでもない。意外といるんだよ。美袋みたいな奴は」
「そうなのか?」
「大抵のケースは裏世界に気づく前に素通りするけどな。神秘に触れるのは稀」
「じゃあやっぱりレアケースじゃないか」
鳥居をくぐる。乳白色が視界の端から追って来て、目を開いているのにもかかわらず街の風景が見えなくなる。
と同時に、持っていたビー玉がかぁっと熱くなった。
ばらばらと表層が剥がれるようにして浮いていた目玉模様が見えなくなる。透明なころりとした、ただの何の変哲もないビー玉になってしまった。
「わ、若旦那、」
これが減衰なのか、と聞こうとして、しかし視界はミルクを垂らしたように白くかすんでしまって見えなかった。
代わりに、目の前を歩いている若旦那の声だけがこだましている。声色は少し寂しそうに聞こえた。
「先の質問に答えよう、美袋。怪奇は表の世界に出ていけないんだ。向こうの世界を乱してしまうし、運が悪けりゃ消えちまう」
「え、」
「だから俺はそっちに行けない。……さよなら美袋。弟によろしくな」
───。
何かを言うよりも先に、目を覆っていた白霧が晴れて来た。
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