RECORD

Eno.112 天降川もあの記録

#00 「飛んで火に入る夏の虫」

 科学の発展著しい学園都市『北摩テクノポリス』こと北摩市にも、草木が生い茂る森や涼やかなせせらぎを感じられる川辺など自然豊かな場所はあちこちに遍在している。現代社会に疲れた身と心を癒したり、家族や恋人などと共にかけがえのない思い出を作ったりするそれら貴重なレジャースポットは、好奇心旺盛で遊び盛りな子どもたちにとっても大事な役割を果たしていた。

 近所の小さな森に初めて出かけたのは、小学校低学年の夏休み。クラスの男の子たちがカブトムシ捕獲計画を企てているのを小耳に挟み、つい首を突っ込んでしまったのがきっかけだ。
 当時の私はお父さんが買ってくれた大きな写真付きの生き物図鑑が愛読書で、とりわけ身近な存在である昆虫への興味が強かった。しかし「一人でそういう場所に近付いてはいけないよ」と両親から繰り返し念を押されていたし、かといって仲の良い女の子たちに芋虫やなんかを喜んで触りに行きたがる子が居なかったのもあって、これはもう男の子を頼るしかないな、となったわけである。
 果たしてその夏は、森の環境や私たちが活動できる時間帯などの関係でカナブンを捕まえるのが精々だったが、カブトムシそのものはお父さんがわざわざ採りに行ってくれたので、実物を観察しながら自由研究を完成させることができた。
 そしてこのカブトムシ捕まえ隊の集まりは虫採りに留まらない。森を探検すれば手頃な木の棒を「剣」と称して拾い上げ、手に馴染む自分だけの一振りとの出会いに一喜一憂しつつチャンバラに励み、ふとした拍子にへし折れた相棒に涙する子を慰め。また河原へ赴けば石で水切り対決に興じ、うっかり足を滑らせてびしょ濡れになり、帰り道で親への言い訳を考え。公園に集えば鬼ごっこやかくれんぼなどおよそ幼少期に誰もが通ってきた遊びをひとしきり網羅したりと、進級して別のクラスに別れてもなお続く年単位の長い付き合いとなった。
 男子に混じって体を動かすことや自然の中にあるものに関心を抱くことには両親ともに賛成していながらも、手足に細かい擦り傷や引っかき傷を繰り返し作ってくるとか、服を必要以上に汚して帰ってくるなどといった部分に対しては心配の声が大きかった。「大きな怪我にだけは気を付けてね」という両親のお願いに注力した反動でもあっただろう。女の子が絆創膏まみれになるのはどうか、と考えたお母さんが包帯を巻いてはその上からリボンを付けて少しでも可愛らしくしてくれたけれども、そのお陰で余計に怪我が減らなくなった時期もあった気がする。


 数年が経ち、私の身長が彼らを追い越すようになった頃。何度目かの夏休み、お祭りを楽しむからにはと浴衣を着せられた夕暮れ時だったか。屋台の前で偶然出くわした馴染みの顔ぶれが皆一様に固まって、単なる挨拶でさえ異常なほど反応が鈍かったことをはっきりと覚えている。
 年頃の子供が身近の異性というものを意識し、身体的な性差が徐々に表れ始めると、これまでは何でもなかった些細なやり取りすらもぎこちなく、どこか妙な感情が混ざり出したのを子供心にも感じ取れてしまった。
 始業式を迎えてから、教室ではいつも通りに接していても、放課後になると皆そそくさと居なくなってしまう。別段ケンカするでもなく、いじめられるでもなく――ちょっとしたいじわる・・・・くらいはあったと思うが――露骨ではあっても嫌われているのとはまた違う、不思議な距離感。
 当時の私にはわかり得ない何らかの事情も、今振り返ればそれらしい理由はいくつか思い浮かぶ。向こうの親御様が女の子をあちこち連れ回すのを控えるよう言ったにせよ、彼らの間だけで何か問題が発生して分裂したにせよ、或いは単に流行りのゲーム機に飛びついて室内で遊ぶ比率が増したにせよ、自分の好奇心と運動意欲を満たしてくれていたものに急に蓋をされてぽっかりと空きが生まれたような、虚しさめいたものが確かにあった。
 そんな次第で男の子たちとの付き合いがなくなると、当然外へ遊びに出かける回数が減って怪我も一気に少なくなる。一人娘のやんちゃがいつだって心配で仕方がない両親はようやく胸を撫で下ろした風であったが、私は包帯とリボンによるささやかなおめかしが出来なくなったことに気が付いてショックを受けた。お母さんから「リボンくらい、いつでも着けてあげる」と優しく声を掛けられると、「リボンもいいけど、わたしは包帯のニオイとさわった感じがすきなの!」なんて言い返しては、三十分ばかり膨れていた。


 小学生最後の夏休みともなると、その年の自由研究をどうするか決めかねて家族の前で「どうしよう~」などと唸るようなことはなくなったが、勉強机に飾ってある昆虫のフィギュアに視線を送りながらぼんやりとする回数は日ごとに増えた。その小さなカブトムシたちをお菓子コーナーに並べるためだけに同梱され、最早どちらがメインなのか混乱する個包装のラムネ菓子が舌の上で崩れていく最中にも、あの日の森の光景が脳裏に浮かんでは消える。
 写真でしか見たことがなかった生き物たち。カブトムシが暮らしているかどうか疑いもせずに探し回るのは、心の底から楽しかった。いきなり顔に飛んできたカナブンにびっくりして尻もちをついたのも、木の洞を覗き込んだ途端にわらわらと出てきた虫たちに皆で大声を上げたのも、うっかり近くのセミを驚かせておしっこをかけられたのも、夏の思い出らしい出来事だった。
 そのうち何故だかどうしようもなくさみしくなって、私は救急箱から包帯を一束持ち出して勢いよく外に駆けた。

 数々の建物が立ち並ぶ灰色の森の中は、陽が傾いてなお茹だるように暑い。大粒の汗が額を、首を、手足を流れ落ち、意識を朦朧とさせる。子どもの足でも苦労しないはずの近所でさえ、うんざりするくらい長く遠く感じられる道のりだった。
 背が伸びて目線が高くなったせいか記憶よりもずっと狭く小さく感じられたけれど、いつかのあの森はしっかりとそこにあった。この数年で幾らか人の手が入り、鳥居にそっくりな門が建ち、歩道ができ、ベンチまで増えたりしながらも、セミの大合唱だけは当時と同じやかましさで私を出迎える。
 変わったもの。変わらないもの。変わらずにいられたもの。
 北摩という大きな街ができるより遥か昔からここには森が広がっていて、それはきっと今よりももっとずっと大きくて、人間や他の動物や虫たちと長い間を一緒に生きてきたはずで。たとえもう僅かしか残っていないのだとしても、空高く伸びた木たちはこれから先もこの場所で森らしく・・・・あろうとする。
 私だって身の回りの色々に影響されて少しずつ大人になる。自然への興味も、クラスメイトとの付き合いも、リボンによるおしゃれも、どれもが私を構成する一要素ではあっても今後も必要とされうるものではない。特定の事柄に強く引っ張られたり、突然冷めてしまったりはよくあることで、そういう熱意や空白とうまく折り合いをつけていく過程で私らしさ・・・・なるものが形作られていく。
 私の感じたさみしさがその一部としてどう消化されるのかは、まだわからない。でも、まっすぐこの場所に来たからには、きっと意味がある。


 入口から数歩進んだところで、高鳴る胸に握りこぶしを当てて立ち止まる。
 ぼうっとする頭で一体何を見つめていたのだろう。乱れた呼吸も上下する肩も、一瞬のうちに鎮まっていた。
 ふと木々の合間から差し込んだ夕日に目が眩み、顔を伏せた。たちまち疲れがどっと押し寄せて、ふらりと揺れる身体を支えきれずしゃがみ込む。
 落ち着くまで何度か息を吸って、吐いて、ようやく顔を上げた時。これまでと明らかに違う雰囲気に、全身がぞわぞわした感覚に包まれて思わず飛び跳ねた。
 森に音がない。あんなにうるさかったセミの鳴き声も、風に揺れる葉っぱのさざめきも、そばの道路から聞こえていた車のうなりも。何もかも。
 慌てて後ろを振り向いて、ますます意味がわからなくなる。車はおろか人すらも見当たらない。
 ここは、私の知っている森ではない。いや、この街も本当に北摩の街なのかどうか。

 得体のしれない恐ろしさばかりが募っていく中で、視線の先に白くて長い帯が揺らめいて見える。すると反射的に、何を考えるでもなく一直線に地面を蹴った。すぐにも逃げ出したい一心で、自分の直感を信じて、ひたすらに前へ。頭は未だぼんやりしていても、身体はちゃんと動いてくれた。
 歩道を抜けて、道路を踏みしめても、擦れた靴底はとても静かだった。懸命に走る私の目の前で、もっと急いでとばかりに帯が引っ込んでいく。どれだけ頑張っても近付く度に離れてしまい、まるで追いつけない。
 帯を辿って一つ、二つと道を曲がる。来た道と逆を行く見知った街並みにも、音がなく人もいない。
 三つ。角の家で飼われている、大きくて真っ白な犬の姿が目に浮かぶ。小さい頃は前を通るのが怖かった。
 四つ。ここを曲がれば自分の家はすぐそこだ。白い帯が門の向こうまで伸びているのがわかる。
 帯に導かれるまま玄関前まで駆け込んで、ドアに手をかけた瞬間。私の意識はふつと途絶えた。


 目が覚めると、玄関の内側で靴を履いたまま横になっていた。
 奇妙な夢でも見ていたのか、暑さでおかしくなっていたのかは、やはりわからない。
 しかし床の冷たさとドア越しにもやかましいセミの声が、ここが紛れもない現実であることを知らせてくる。

 家を出た時から左手でぎゅっと握りしめていたはずの包帯は、いつの間にかどこかへいなくなっていた。