RECORD

Eno.172 小谷 侑一郎の記録

名前のない男

 ある夜のこと。

「……」


 焚き火を囲む人々の輪から離れ、廃マンションらしき建物を利用した拠点を出るヘルメットの男は密かにため息をついた。胸にわだかまる幾らかの恐怖と警戒心、そして焦燥。先ほどまでの拠点の裏世界に住まう人々に対する好意的な態度とは裏腹に、男は息の詰まるような感覚を肺から吐き出して今ようやく呼吸ができた心地になった。
 見上げる空は永遠の夕暮れ。夕日に赤く染まる街並みと、長く黒く伸びた影が男の肩や足元に重く絡みついていた。


 ここはごく一部の関係者から『裏世界』と呼ばれる、常識や科学では説明のつかない奇妙な世界。朝も夜もなく沈むことのない永遠の夕日の中に閉じ込められた、同じようで何かが違う歪んだ鏡写しの世界だ。
 神秘で溢れるこの地には『怪奇』と呼ばれる何かが存在していて、人のようで人ではないモノが逢魔時にうろついている。
 先ほど情報を得るため訪れた裏世界の拠点にも、そうした人間離れした──あるいはもとから人間ではない──ヒトたちが集まっているのだそうだ。

 ヘルメットで顔を隠した男こと、ごく普通の一般人である小谷は、神秘だの怪奇だのの実態を知るため何度か裏世界へ訪れていた。今回ここ『アザーサイドコロニスト』と呼ばれる機関に接触したのも、裏側のヒトがどのようなものかを知るためだ。
 裏世界についての一応の知識は彼の所属機関である『カレントコーポレーション』から貰っていたが、実際にこの目で見るまでは納得ができなかった。ずっと、夢か何かしら趣味の悪い宗教勧誘なのだろうなと思うようにしていた。
 だというのに、平和な表の世界に生きる小谷をあざ笑うかのように、彼が裏世界へ迷い込む頻度は増していったのだった。

 この地の異常さは、ほんの数日のうちに嫌というほどに痛感していた。
 薄気味悪い建物はみな嘘ばかりで歪んで狂っていて、知っているようで知らない。落ちない太陽は時間の感覚を鈍らせ停滞の中に引きずり込もうとしてくるようだった。
 この世界に居るだけで妙な重苦しさが小谷を襲った。今まで感じたことのない、薄ら寒い気配。表の世界へ逃げかえってもそれは静かに彼を浸食し、体調も悪化していった。

 電車に乗り込む異形たちの群れを見た。何もいないはずの深淵から呼び続ける声を聞いた。はしゃいで駆け回る見えない子供の笑い声。校舎の窓の向こうに見える見覚えのない制服。出鱈目な文字列や黒塗りの規制ばかりの本、それを抱える廃図書館。
 それらが当たり前の顔をして存在しているのを、見た。

 ……そして、そんなおかしな世界を頼る人がいる事実も。
 表では得られない金や仕事を欲して裏の拠点へ来る者、消えた誰かを探して裏世界を彷徨う人、それぞれの問題を抱え、浮かない顔で夕焼けの世界に留まる人。
 それらの多くが成人もしない学生たちだなんて、誰が予想できただろう?

 彼ら彼女らも、小谷が感じたような苦しさ神秘の影響を耐えながらあえて裏世界に来るのだろうか? 彼らを護り育てるはずの学連は、裏世界を仕切っている機関は、何故この状況を良しとしているのか?


「……裏世界で使う名前が必要だな」


 表の友人へ危害が及ぶのを恐れ素性を明かさなかったが、彼ら彼女らを寂しいまま放っては置けないという焦りが先行する。

 幸運なことにずっと幸せなまま生きてきた小谷には、表と裏に等しく当たり前にある『不幸』というものの正体を今一つ理解できない。
 傷口を塞げばいずれ癒えるのだと思っている。
 手を伸ばせば救われてくれると思っている。
 あの時表での生を諦め裏世界へ消えていった友を連れ戻せなかったことは自分の咎なのだと感じる。

 ――ヒーローとしての己を何と名乗ろう。