RECORD

Eno.102 不明門通 辰巳の記録

【日記11】螺千城の話---蛭子同舟




裏世界には表世界のものが流れ着くことがある。
たとえばそれは電子機器だったり、書籍だったり。
真新しかったり古めかしかったりはさておき、神秘に染まっていない表世界のものが漂着物のようにやってくる。
さしずめ海の無い北摩における入り江のようだと嘯いたのは誰だったか。

「一説によれば、表世界で不要とされ、捨てられたものがこの世界に辿り着くのだとか」
「一説に拠れば、ね……他愛ない流言だろ?」
「それがそうでもないんですってよ、若旦那」

頬杖をついてぺらぺらと文庫本をめくりながら、若旦那と呼ばれた青年はくぁ、と大口を開けてあくびをこぼす。
西日差し込む午後の事───とはいえ裏世界には朝焼けと夕焼けしかないので、表世界側でいう大まかに午後の時間帯。
青年は暇を喫していた。閑古鳥が鳴いているわけではないものの、凪というか閑散というか、駄菓子屋の不明門堂はお客が捌ける時間帯がたまにあるのだ。
もう少しすれば近所の子供連中がこぞって菓子や玩具を買いに来るのだが、それまでまだ半刻程ある。

ねぇ若旦那さんや、と青年はふたたび名を呼ばれた。
文庫本から視線を上げて顔をそちらに向ければ、額に小判を張り付けたキツネの怪奇が風呂敷を解いている。
キノ助は螺千城で野菜や雑貨を取り扱う行商だった。
つい三日前にもこの店にやって来て魚を売っている。台所にはまさにこのキノ助に売って貰った魚が二尾、網に並べて干し吊られていた。
今日は魚ではなく本を売りに来たようだ。

「なかなか信憑性のある説だと思いません?」
「そもそも一体どこからそんな話が出たんだ、キノ助」
「仕入れの時に同業からそういった話を聞き及びましてねぇ。人間は古くなったら、たとえ使える物でもすぐ捨てるらしいですよ。いやはや羽振りがよろしくて羨ましい!」
「じゃあここで拾える品々は、かつて誰かの所有物だったと?」
「あくまでも一説に過ぎないので、可能性が少しはあるんじゃないかって話ですが。ぼくは信ずるに足る説だと思ってますよ」
「根拠でもあるのか?」
「へへ、もちろん」

だってほら、ここを御覧になってくださいな。
ぴとりとキノ助の肉球が指し示す場所には、なるほど確かに誰かの名前が書かれていた。
元の持ち主だろうか、黒々とした油性ペンでくっきりと記されている。

「捨てたもの……」
「汚れなし、落丁なし、乱丁なし。読めるなら十分に商品として成り立ちますから。使えるうちに捨てて貰えるなら、ぼくとしては万々歳!」

キノ助はカリカリと爪の先で名前の所を引っ掻いて、器用に名前の部分を削り取った。
人の長い指にあわせて作られたそれは持ちづらいだろうに、これまた器用に筆を執る。
上からぺたりと白塗りをしてしまえば、文字の痕跡は僅かに残るばかりになった。注視しなければ分からないだろう。

青年は文庫本に再び目をやった。つらつらと読むこれもまたキノ助の仕入れ品の一つだ。
名前こそ書かれていないが、もしキノ助の言う通りこれが誰かの捨てたものならば、元は見知らぬ他人の所有物だったのかもしれない。
日に焼けた薄黄色のページの端をつまんでめくりつつ、青年はなんとなくキノ助の言葉を反芻してみる。
表世界で不要とされ、捨てられたものが行きつく先がこの裏世界であるならば。怪奇達は表の世界から爪弾きにされ、捨てられてこの世界にやって来たことになる。
道理としては通るな、と青年は独りごちた。
2000年以降の状況は人類にとってゴミ箱をひっくり返されたようなものなのかもしれない。
捨てたはずのものが舞い戻って来たら部屋が散らかってしまうのだから、再び捨てようと躍起になるのも当然だ。

「大判小判でも流れ着けばいいのになぁ」
「銭を捨てる奴はいないんじゃないか、さすがに」
「だめか……人間はたまに捨てられるんですけどねぇ」
「……」

三日前、堝々の端で死体が上がった。
怪奇が転がっているのは茶飯事だが、人間が転がっているのは珍しい。何人かで囲んで見聞して、そうして噂は累卵道の駄菓子屋まで流れてきた。

裏世界には表世界のものが流れ着くことがある。
たとえばそれは電子機器だったり、書籍だったり。
稀に───人間の赤ん坊だったりするのだ。

「生きてたのか?」
「いやぁ、見つかった時には冷たくなってたらしくて。身ぐるみも何も無かったってんで、産み落とされてからすぐだったんじゃないかって話ですわ」
「難儀なもんだ。水子の怪奇にならなきゃいいが」
「いやはや全く」

人間はものを捨てる。不要であれば犬でも猫でも、産み落とした同族の人間でさえ。
人の祈りが神と奇跡を生み、人の恐れが妖と災禍を生んだというのに、人から生み出された神秘すらをも切り捨てた。
もしもくだんの説が本当ならば、裏世界は屑籠の底ということになる。
取るに足らない一説だと切って捨てるには惜しい。キノ助の言うそれもあながち間違いではないのかもしれないな、と青年は思った。

「人身売買には手を染めるなよ、キノ助」
「何おっしゃる、ぼくは螺千城の誠実な行商としてやらせてもらってるんですよ。人間なんて売りません!買い手もそもそも居やしませんて!」
「それもそうか」
「犬猫は売りますけど」
「あのなあ」

本気なのか冗談なのか判別つかないそれを話半分に、青年はまたページをめくる。
会話を切り上げようとして、しかしぴたりと手が止まる。青年の脳裏に過去の会話が過った。
死体が上がった日の事。累卵道でまことしやかにささやかれていた近所の住民達の噂話が。
三日前、釣りの帰りだという二人組に釣果を聞いて、返ってきた言葉が青年の中でリフレインする。

恵比寿エビスのおかげで今日は入れ食いだったんだ。大漁大漁」
「恵比寿って何だ?」
「恵比寿を知らないのかい若旦那。恵比寿ってのはね、」

恵比寿とは流れ仏のことだそうだ。土左衛門、つまり身元不明の海難者の水死体を指す。
漁神として名を馳せた恵比寿神から呼び名とって、恵比寿は漁師たちの間では大漁をもたらすものと信じられていた。
漁の途中に見つかった恵比寿は船で持ち帰り、陸揚げされ、ねんごろに葬り、祠や碑を立てたという。
科学的にこれを紐解くならば、ぐずぐずになった宍を食べに魚が水面へと浮上して漁獲量が上がるんだとか。
とはいえこれも都市伝説のうちのひとつ、実際のところは分からない。

「キノ助」
「はいな。何でございましょ」
「……裏世界で死体が上がった日は、魚がよく獲れるって本当か?」

キノ助は青年の問いに返事をせずに、代わりに手を額にあててテープで貼り付けた小判を撫でた。
てしっと大変可愛らしい乾いた音がした。見るからにとぼけていた。
青年はその所作を見て絶句し、振り返って台所に目を遣る。

そこには三日前にキノ助に売って貰った魚が二尾、網に並べて干し吊られていた。
大ぶりで食いでがありそうだな、と思って買ったのを、ちょっぴり後悔したそうな。