RECORD
⚡四月は最も残酷な月(1)

空に一筋、白い線が引かれていた。
飛行機雲だ。
地上から見る機影は豆粒よりも小さく、音も聞こえない。
それでもなお残された軌跡は、まるで定規で引いたかのように真っ直ぐに、くっきりと残っていた。
(あの飛行機、どこに飛んでいくんだろうな……)
ふと、答えのない空想が頭によぎる。国際線だろうか、それとも国内線だろうか。
(……どうでもいいか)
鼻息をひとつ鳴らしてから、視線を足元へと落とした。アスファルトに昨日降った雨の名残がある。
今日は束都高等学校の始業式だった。
高校生、という響きに、ふつうはどんな感慨が湧くものだろうか。
束都高校は中高一貫校だ。中学からそのまま持ち上がりだから、生徒の顔ぶれもほとんど変わらない。
新しい制服に袖を通したところで、中身が劇的に変化するわけでもないのだ。
相変わらず、一樺チカは一樺チカのまま。
下校道には、午後の柔らかな日差しが降り注いでいた。
長雨が続いたせいか、桜は例年より早く盛りを過ぎ、花びらが風に舞って緑色の葉桜がちらほら現れている。
周囲には、同じく真新しい制服を着た同級生たちと、その保護者らしき大人がよく並び歩いている。
先ほど自分の抱いた内心とは異なり、なんとなく浮ついた雰囲気が漂う。
談笑し、これから始まる未知なる高校生活について他愛もない言葉を交わす、会話の切れはしが聴こえてくる。
自分は誰とも並んで歩くことなく、一人で家路に向かっていた。
ポケットに手を突っ込んだまま、少し俯き加減に。
保護者同伴の生徒が多いのは、始業式という節目だからだ。
(自分には、もう、そういう存在はいない)
母親は、九つの時に離婚して家を出て行った。
理由は複雑なようでシンプルなものだが、あえて思い返す気にもなれない。
(こうしたケースでは珍しいらしいが)親権は父親が持つことになり、二人で都内の安アパートに引っ越した。
そして、その父親もいなくなった。
中学二年の時に死んだ。
同じ会社で勤続30年もフォークリフトを動かしていた父は、現場でたった1メートルの高さから頭を打ち、
そのまま意識が戻らなかった。
今は遠縁の親戚にあたるらしいアパートの管理人が、書類上の未成年後見人となっている。
ほとんど一人暮らしのようなものだ。
学校行事に親が来る、来ない、という問題は最初から存在しない。
別に寂しいとか羨ましいとか、そういう感情も湧かなくなった。
慣れというのは不思議なもので、両親がいないという事実はいつの間にか日常の一部となっていた。
生きているということは、そんなものなんだろう。
(まあ……そんなもんだろ)
勉強ができるわけじゃない。運動神経も悪い。コミュ力に至っては言うまでもない。
何かに打ち込んでみても、結果はいつも人並み以下。押し並べてCマイナス、といった評価に収まる。
常にそんな感じだった。
セルフ・ハンディキャッピングというやつかもしれないが、どうだっていい。
常に「不可」に近い「可」をうろついている半端な存在。それが、今も昔も一樺チカという人間だった。
別にそれでいい、と割り切っている。
期待しなければ、失望することもない。最初から地面を見ていれば、転んだ時の衝撃も少ない。
得られたものは、そういう処世術だけだ。
(……………)
ふと、音楽でも聴こうと思った。
制服のポケットを探る。そこには、少し古びた携帯音楽プレーヤーが入っている。父親が遺した形見の一つだ。
これには父親が好きだった古いロックや、
後から追加したサブカル系の邦楽、アメコミ映画のサウンドトラックなんかが詰まっている。
現実から少しだけ距離を置きたい時、この小さな箱に逃げ込む。
指先で滑らかな金属の感触を確かめる。
ポケットから取り出そうとした、その時だった。
───カシャン。
「げっ……!」
プレーヤーが、手の隙間から滑り落ちた。
金属と電子回路の小さな塊は、重力に従ってアスファルトの上を数回跳ね、
最悪なことに道路脇の建物のそのまた隙間へと転がり込んでいく。
「……おいおいおいおい、マジか」
思わず悪態が漏れる。よりによって、こんな狭い場所に。
そこは古い雑居ビルと、隣接するアパートの壁と壁が、申し訳程度に空間を隔てているような場所だった。
人が一人ようやく横向きになれるかどうか、という幅しかない。
薄暗く、湿っぽい空気が淀んでいるのが分かる。
(くっ……見た目より動きづらいな)
それでも、拾わないわけにはいかない。
意を決して、その隙間に身をねじいれる。
壁に背中と腹を押し付けられる格好で、カニ歩きのように、じりじりと奥へ進む。
数メートルほど進むのにも苦労して、ようやく薄暗がりの中、足元で鈍く光る箱のもとまで辿り着く。
指先が硬い金属の感触をたぐりよせた。
「壊れちゃ……いないか?」
軽く手のひらで表面を払ってからスイッチを入れると、液晶が正常に映った。
一応、窮屈な姿勢でイヤホンをつけて音が鳴るのも確かめる。
問題なさそうだ。安堵の息を漏らす。
あとはこの隙間から戻るだけだ。そのままの姿勢で、元きた入口のほうに頭を向けようとした、その時。
ふと、隙間の向こう側――入ってきたのとは反対側の出口が、やけに明るく見えた。
明るい、というのも少し違う。奇妙な色合いの光が漏れている。
まるで夕焼けのような、それでいてもっと深く濃い色。
(…………?)
好奇心、というほど大袈裟なものではない。ただ、ほんの少し、気になった。
元来た道を戻るより、こちら側から出た方が早いかもしれない。そんな軽い気持ちだった。
そのまま前進する。
壁との摩擦に顔をしかめながら、横歩きでゴミやなにかの瓦礫を踏み越えて進む。
そして、狭い隙間を抜け、外へと一歩、足を踏み出した。

「……ここは、何処だ?」
目の前に広がっていた風景は、自分が知る北摩市と、まったく異なっていた。