RECORD

Eno.194 観音寺 悟々の記録

01:師父/おじいさん

「――――つまりな、ウーよ」

 ゆらり、ゆらり。
 ふしくれだった二本の指を軽く折り曲げ、下へと向けて。

 ゆらり、ゆらり。
 上体を前へ後ろへ、右へ左へ。

だのだの呼ぶ奴もいるが、ちょいと観察すればすぐにわかる」

 ゆらり、ゆらり。
 ――――ゆらぁり、ゆらり。

 緩慢に、どこまでも緩慢に。
 まるで現実がスロー再生されているのかと錯覚するほどにゆっくりと、徐々に、ゆっくりと。
 速度を落とした所作は、信じられないほどに遅く……けれど、僅かな震えもなく。
 淀みなく、ただただ緩慢に、その老人は動き続けた。
 それが驚異的な身体操作感覚と体力に裏打ちされた超人技であることを、既に少年は……観音寺ゴゴは知っていた。

蟷螂カマキリの腕は獲物を切り裂くためじゃなく、獲物に突き刺して捕らえるためにあるんじゃよ」
「う……ぎぎ……」

 ……なにせゴゴも、老人の隣で同じことを……やろうとして、プルプルと震えながらバランスを崩し、ガタガタとぎこちなく手を動かしているから。
 まったくもって、緩慢ではない。
 難しいのだ。
 ゆっくりと、淀みなく動くのは。
 毎日ちょっとずつ、ちょっとずつ、震えが少なくなっているような気もするけれど。
 気のせいみたいに、今日もやっぱり。

「故に、蟷螂の形意は指を押し込むように……」
「うわーっ! もう無理ーっ!」

 こてん、と。
 耐えきれなくなって、幼いゴゴはその場に倒れ込んだ。

「かっかっか……まだまだ功夫クンフーが足らんのう、ウー

 それを見て、老人は動きを止めるでもなく、けれどカラカラと笑った。


 老人は、ゴゴの師匠であった。
 近所に住む、恐らくは中国人であろう老人。
 ボサボサの白髪、よれよれの服、もじゃもじゃのひげ、ボロボロのハンチング帽、浅黒く日焼けした肌。
 浮浪者スレスレのみすぼらしさで、けれどそれらが生命力を感じさせるような、不思議な老人だった。

 毎朝、近所の公園で鍛錬をしていた老人に、カンフーを教えて欲しいと興味本位で頼み込んだのが二人の関係の始まりだ。
 最初はゴゴの友達も何人か一緒にいたけれど、飽きてしまった奴や、親に辞めさせられた奴が徐々に抜けて行って、今ではゴゴだけが老人にカンフーを教わっている。

 老人はひと通り蟷螂拳の型稽古を終えるとベンチに腰掛け、置いてあったヤカンを傾けて喉を鳴らした。
 ヤカンに入っているのは酒、らしい。
 ゴゴも最初はお茶かなにかかと思ってねだったものだが、これは酒だから飲んではいかんと言われてしまっている。
 嘘か本当かはわからないけれど、老人がヤカンから酒を飲んでいる時はいつも本当に嬉しそうだから、いつか俺もお酒が飲んでみたいなぁとゴゴはいつも思うのだった。

「ししょーはさぁ」

 ぺたんと地面に座りながらゴゴが老人に声をかけると、老人はヤカンから酒を飲む手を止めた。

「なんでカンフーやってるの?」

 それはなんてことのない、深い意味も無い、素朴な疑問。
 継続の理由を問いたかったのかもしれないし、始点の理由を聞きたかったのかもしれない。今となってはどちらの意味で問うたのか、ゴゴも覚えていない。
 けれど問われた老人は、しわくちゃの顔をさらにくしゃりとしわだらけにして笑った。
 ゴゴはこの、笑いじわの多い老人の顔が好きだった。

「それはなぁ、ウー

 老人はゴゴのことをウーと呼んだ。
 三蔵法師のお弟子さんたちと同じ名前だから、きっと徳があっていい名前だ……なんて言いながら。
 ゴゴには言っている意味がわからなかったけど、老人にウーと呼ばれるのは好きだった。親しみが伝わったからだ。

「ワシが、生きているからじゃ」

 だからこうして、よくわからない答えが返ってきても、ゴゴは嫌な気持ちにはならなかった。

「……生きてると、カンフーするの?」
「そうとも。生きるということは、功夫クンフーをするということなんじゃよ」

 不思議と、“はぐらかされている”とは思わなかった。
 老人は真っ直ぐに、なにかを伝えようとしているように感じた。いつもそうだった。

「どう生きるか。どう生きたか。なにを見て、なにと出会ったか。それが功夫クンフーじゃ」
「…………よくわかんないよ、ししょー」
「かっかっか! そうじゃろうの……それでいい。ワシもこの言葉の意味に気付いたのは、齢にして13の時じゃった」
「けっこう子供の時じゃん」
「ワシ才能あったもーん。かぁーっかっか!」

 笑いながら、老人は浅黒くふしくれだった手を伸ばし、乱暴にゴゴの頭を撫でた。

「わっ」
「……いいか、ウーや。
 いいことも、悪いことも。
 好きなものも、嫌いなものも。
 楽しいことも、嫌なことも。
 覚えていようと、忘れていようと・・・・・・・
 お前が出会い見知った全てが、お前を形作る」

 慈しむように。
 期待をかけるように。
 ただ、肯定するように。
 老人は笑って語りかけた。
 きっと語りかけているのは今のゴゴ・・・・ではないのだろうと、ゴゴはぼんやりと思った。

「それが、お前の功夫クンフーじゃ。よく励めよ、ウー

 くしゃり。
 笑いじわの多い顔を、もっとくしゃくしゃにして。
 細めた目でゴゴと、今のゴゴではないナニカを慈しんで、老人は笑った。

「……さ、今日はもう帰りなさい。またお母さんに怒られるぞ。ワシが」

 そして、気付けばもう日も傾き始めたことを告げて、またヤカンから酒を飲み始める。
 浮浪者スレスレの老人と子供が遊んでいることについて、まぁなんか、色々あったのだ。一度。
 老人が丁寧に対応し、ゴゴがこれでもかと駄々をこねたのでなんとかはなったが、その時に日が暮れる前に帰すと約束したのだった。なのでもう帰さないと老人が怒られるのだ。
 それは老人に悪かったし、ゴゴ自身お母さんとの約束を破りたくはなかったので、渋々ながら従わざるを得ない。

「……ん。じゃーねししょー! また明日!!」
「おう、おう、気を付けてのー」

 ゴゴは立ち上がって、服についた泥をはたいて落として(落としきれていない)、大きく手を振って帰ることにした。
 老人はヤカンから酒を飲みながら、ひらひらと手を振り返してゴゴを見送った。

 カァ、カァとカラスが泣いていた。
 夕暮れの赤に、疲れが溶けだしていくようで。
 また明日。また明日は、どうしようか。
 また明日、とーろー拳を教えてもらおうか。
 それとも、ジャ拳とか、サル拳とか、スイ拳とか。
 老人は色んな拳法を知っていて、毎日色んな拳法を教えてくれた。
 明日は、どんな稽古をつけてくれるのかな。
 楽しみにして、ゴゴはおうちに帰った。
 そんな、幼い日の、なんでもない日常の話。

 ――――この時の師匠の言葉は多分、もう、ゴゴに届いている。