RECORD

Eno.31 珠洲枝 暁近の記録

導入 ~珠洲枝 暁近の場合~

 
まだ心臓がばくばくしている。
結局ろくに目に映すこともなかった赤い何か。
近藤さんが運よく見つけてくれなかったら──今頃。

ぞわり、と背に冷たいものが走る。
振り払うようにかぶりを振って。


……自分の手を引く白い手はあたたかく。
夕闇に染まる大地、眼前に伸びる影は黒々と。
立ち並ぶ異様なオブジェ。街の形だけを模したもの。
薄気味悪いばかりのはずのそれは、


      『──なっちゃん!』


なぜか幼い頃に見た、帰り道を思わせた。



目を眇める。
……おかしな話だ。
あれはこんな異様な場所ではなかったし。
あの頃自分の手を取った「あのひと」の手は、もっと、ずっと小さかったはずなのに。


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──というようなことがあって、その数日後。
市役所からの呼び出しを終えて、……幸い午後の授業はなかったので、そのまま帰宅。
学連まで出直したり、コミュニティとやらにまで足を運ぶ気力は、残念ながら残っていなかった。

神秘への研究とか、対策だとか。
なんだろう。自分の「姉」が不思議な存在であることはわかっていたけれど、
どうやら思っていた以上に、“そういうの”は世に多いものらしい。
不特定多数に知られただけで、神秘というものは簡単にバランスを崩すもので。
溢れさせてはならないし、といって失うわけにもいかず──



……ふー、とでっかく息をつく。
無意識に手を開いたり閉じたり──深く考え込んだ時の癖──していた自分に気付いて、かぶりを振った。
考えすぎてもすぐに解決する問題ではない。
鍵を入れて、回して、

「つかれた~~~……」
玄関先、フローリングに両手を突いてへたりこむ。


ただ話を聞いただけだ。
大したことはしていないのに、なんだかどっと疲れてしまった。
カチャカチャカチャ……床板を叩く爪の音。
まずい、と思った時には遅く、


「どわあ!!!!!」

「わふーーっっ」


飼い犬に突っ込まれて、顔面がオレンジに染まっていた。

「こら! まふ! ……マフィン! ステイ!」

「ばうっ!」


聞き分けはいい。きりっとした顔つきでおすわりを披露。
よし、と座ったまま背を撫でてやると、ぶんぶんと尾が揺れた。
1年前から飼い始めたコーギーは、本質的にはとても賢い。
──ただ、その。あほみたいに元気がいいだけで──


「ちかちゃんおかえり~。おじいちゃんが、お昼終わったら水やり──
 ……どしたの? なんかあった?」

スリッパを履いた足が眼前に迫る。
見上げれば、そこには「姉」のとぼけた顔があった。
話せばうるさいような気もしたが、話さないのもそれはそれでうるさそうだ。
いずれにせよ、今後市の“手伝い”とやらをすることになるなら、いつまでも黙っているわけにもいかないし。

「…………あー。ちょっと、」
語る。昨日少々危険な目に遭ったこと。
本日の呼び出し。持ちかけられた協力依頼。
細かいところを省いて説明してしまえば、思った以上に話は短く済んだ。
いっそ拍子抜けするくらいに。

「あー。ちかちゃんも協力者になったんだ」
「────は?」
あっけらかんとした反応に、出たのは一音。
心配されるとか、そういうところからかと思っていた。
なつは少し過保護なところがあるし、俺が逆の立場だったらたぶん無事を気にかけるから。
なのに、なんで、こんな、あっさり。


「も、……!? なに、え、なつも!?」
「そうだよ」
ひょい、となつが屈み込む。
金から桃色、桃色から淡い紫。朝焼けみたいな染め髪の裾が孤を描いて、そのままふわりと床についた。
あーあー。気を遣うわりに、こういうとこぞんざいなんだ。この人。
その振舞いに注意の声を上げる間もなく、姉は俺の手を取る。
白くてあたたかい両手が、手のひらを包む感触。

微笑むその表情は、幼い頃から見慣れた、やたらと慈愛に満ちたもの。
言葉はなくとも『だいじょうぶだよ』と告げているのがわかってしまって、


「………ええええええ………」
理解が追いつかない俺は、思いっきり脱力した。

「あうっ」


俺となつに囲まれたまふ、やたらと嬉しそう。
はーーーーーー……とでっっっっかく息をつく俺(本日二度目)。
にっこにこのなつ。頭を撫でるために伸ばしてきた手は、うりっとかぶりを振って払った。やめい。

「……後で詳しく聞くから」
「うん」
ひとつ頷くと、屈んだ時と同じように、なつはぱっと身を離す。
そのままひらり、軽く手を揺らして去っていった。




……考えてもみよう。
ただの一学生に過ぎない自分への頼み事なんて、たかが知れている。
ひとつひとつ丁寧に向き合って、片付けて。それだけ。
あの秘書さんだって言っていたはずだ。


  『"学生生活"を、おろそかにしないでくださいね』


「……あーーーあ。やってみるかあ!」
ぱん、と両手で頬を張る。
音を立てて遊んでもらえたと思ったまふが、ぐるぐるはしゃぎだす。
うーん、あまりに日常すぎ。

……とりあえずはまあ。
遅い昼ごはんでも食って、菜園の水やりを片付けてから──