RECORD

Eno.305 神楽 紗耶の記録

水底より

──自室のドアを開けたら、そこは赤い山道だった。

「……え、え……?なん、なんで……?」



もちろん自室で植物を育てる趣味はないし、そもそも部屋の中に空があるはずない。
真っ赤に燃える夕焼けに、逆光になってまるで陰に飲み込まれたような自然。
ざわざわと葉が擦れる音がまるで私の心模様まで揺らすようだった。

……ここは裏世界だ。
そう気づけたのは、あの日から何度か裏世界に足を運んでいたから。
もちろん、正規な手順と道のりで向かっていたから、今回のように急に外観が変わることは初めてだったけど。

後ろを振り返る。入ってきたはずの扉はどこにもなかった。
ようするに、偶然発生した一方通行の道のようだった。

        ──偶然?本当に?

「とにかく帰らないと。……大丈夫、歩いていれば北摩のどこか
 知ってる場所には出るはず」



裏世界は北摩の構造と非常に似ている。
幼いころから慣れ親しんだこの町の中であれば、特徴的な建物や景色が見えれば大体の場所の見当がつく。
"遭難した"という恐怖に飲み込まれないよう、立ち止まって陰に飲み込まれないように歩き続ける。

北摩にも山はいくつかある。
けれど、突然山の中に放り込まれてそこがどの山か当てるのはさすがに無理だ。
せめて街並みが見えるところまで出よう。
真っ赤な空しか見えない道を抜けようと、ずんずんと歩みを進める。

歩いて、歩いて、歩いて。
一向に街並みは見えない。
それどころか、暗い影がどんどん広がっている気さえしてくる。

いよいよ心がくじけそうになった時、ほんの少し開けた場所に出た。

──そこにあったのは、小さなお社だった。

「あれ……ここって確か……」



確か幼馴染が言っていた気がする。私が少しだけ行方不明になった時、
古い神社のような場所の前で倒れていたのを見つけたと。
あれ以来、特に理由はないままにあの山へ行くことは避けていたけれど、
まるで記憶の底が刺激されるような鈍い痛みが頭に走った。

──そう。たしか、あの時は一人で山に入って……
途中で見つけた鳥居をくぐって、なんとなく手を合わせたんだった。
けれど、その先の記憶がない。思い出せない。まるで記憶の壺に蓋がされているようだった。
不思議と、思い出してはいけないような気さえした。
唯一表世界の記憶と一致する場所ではあるけれど、ぐっと目を瞑って引き返そうと──











         いいや。キミは思い出すんだよ










何かが、私の首に触れた気がした。
冷たい、細いなにか。
それだけで私は動けなくなる。
後ろを振り返ることもできない。振り向いてはいけない。



「ひどいなぁ、ずっと忘れていたなんて。」
「やっぱりアザーサイドコロニストなんかに頼るより
 めんどくさがらずに自分で送り届ければよかったのかなぁ」




私の頭の上から誰かが語りかけてくる。
誰?誰?誰?

「表世界に出た時に落としたのか、
 アザーサイドコロニストのやつらが何か処置でもしたのか……
 まあいいや。どのみち今こうしてまた会えたんだし」



「ああ──大きくなったねぇ。
 キミと私があった時からずいぶん経ったけど、
 本当に人間の成長はめざましい。
 おかげで私もこの通り成長できた」



この人は何を言っているんだろう。
そもそも"これ"は人なのだろうか?
本能的な危機感と、記憶の底から湧き上がるなつかしさでどうにかなってしまいそうだった。

「かわいそうな紗耶。本当に忘れちゃったんだねぇ。
 その様子じゃ、私としてくれた約束も忘れちゃったんでしょ?」



──約束?

「うん、約束。
 迷子になって、怪奇に取り憑かれたキミを助ける代わりに
 私としてくれた約束。覚えてない?」



──覚えて、ない。思い出せない。

「そっかそっか。
 本当にしょうがない子だなぁ、キミは」






「──じゃあ、もう二度と忘れないように、指切りをしよう」




私の小指に冷たい影が触れる。まるで指切りでもするように絡みついたそれは、ぎゅっと私の指を締め付けて











──痛い



痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!


小指から腕全体に皹が走るような痛みが走った。
走るような、じゃない。実際に私の手指には真っ黒な亀裂が走っていた。


「ああ、大丈夫。血が出たりはしないから。
 ちゃんと"お仕事"を続けていれば目立たなくもなってくるよ。
 でも、一番人間の記憶に残りやすいのって痛みでしょ?
 だからもうちょっとだけ我慢してねぇ」



痛みの中で、それの放つ言葉だけがやけに鮮明に聞こえた。
亀裂が広がるたびに私は思い出す。思い出してしまう。
幼い頃、あの社で交わしてしまった約束。

"それ"は言った。自由に歩ける足が欲しいと。
"それ"は言った。自由に花を愛でる腕が欲しいと。
その代わりにキミを家に帰してあげると。
もう怖いおばけに襲われないための力をあげると。

「キミは確かに約束してくれたんだ。
 キミの約束のおかげで私は自由に歩けるようになったんだ。」



意識が薄れていく。記憶の代わりに私の体の自由が失われていく。
動かなかった体は地面に倒れて、ようやく"それ"の顔が見えた。




「──キミが言ったんだよ。自分の身体を貸してくれるって」



その顔は、その声は。たしかに"私"のもので。

「もう忘れちゃダメだよ?私との約束」







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木々の隙間から差し込む朝日で目が覚める。
あの社の前。山の中。だけど……ここは表世界。

ふと腕を見る。手袋と袖の隙間に黒い亀裂が見えた。

「……夢じゃなかった、かぁ」



私は思い出してしまった。自分が神秘を持つきっかけと、"約束"を。
幼かったあの頃の自分を責めても仕方がないけれど……

体を起こす。亀裂が見えないように手袋を目いっぱい伸ばせばなんとか最低限隠すことはできたようだ。
明け方であれば人も少ないし、両親も気づいていないだろう。
何より今日は予定がある。急いで帰らなければ。

──小さな社は、何もなかったかのように静かに鎮座していた。