RECORD

Eno.267 飛鳥 論の記録

科学と神学


「この世界は、疑いなく万物を導き統べる神の完全な自由意志からのみ生じ得た。
 この源泉から、私たちが自然の法則と呼ぶ法則が流れ出してきた。
 そこには、実に賢明な工夫の痕跡が数多く見られるが、必然性の影は微塵も見られない。」
    —— アイザック・ニュートン、『自然哲学の数学的諸原理』

「むしろ、物理学において何らかの確実な事実に到達したなら、
 それを聖書の真の解釈と、そこに必然的に含まれる意味の探求において
 最も適切な助けとして活用すべきです。
 なぜなら、それらの事実は実証された真理と一致するはずだからです。」
    ——ガリレオ・ガリレイ、『トスカーナ大公妃クリスティーナ・ド・ロレーヌ夫人への手紙』

「これらの(自然)法則は人間の知性の手の届くところにある。
 神は我々を自らの似姿に創造し、その結果として我々が神自身の思考を共有できるように、
 これらの法則を認識することを望んだのだ。」
    ——ヨハネス・ケプラー、『バイエルン宰相ヘルヴァルト・フォン・ホーヘンブルク宛の書簡』



読者諸兄におかれては既知の事柄であろうが
もし本稿において初めて科学と神学の関係性について触れようとする方がいるならば
この点をまず明言しておかねばならない。
すなわち、科学と神学とは、対立的なるものでは決してなくむしろ互いに密接な位置にあり
科学者の真摯なる探究と、神への敬虔なる信仰とは相反するどころか、しばしば並び立ち
相補的にすら機能してきたという事実である。

この点は歴史上の幾多の科学者たちの篤厚なる信仰の態度に鑑みれば自明であるとさえ言える。
たとえばガリレオ・ガリレイの著述に触れた経験のある者にとって
彼が一書簡の中でこれほどに熱を込めて神の権威と啓示について語ったことは、意外に映るかも知れない。
確かに、彼は自然現象の記述に際して宗教的比喩や信仰的色彩を慎重に排する傾向にあった。
けれども、彼がトスカーナ大公に献じた序文や大公妃に宛てた書簡のように
極めて流麗かつ修辞に富み、さらには宗教的情熱に満ちた表現も見出されるのである。

前近代において、科学者の多くは神学者としての素養をも併せ持っていた。
これはすなわち、彼らが神学校にて学んだ経験を有していたことを意味する。
ヨハネス・ケプラーもまた、神学校でいわゆる自由七科(文法、修辞、論理、算術、幾何、音楽、天文)を修め
これが彼の自然研究の出発点となった。
これら諸科目が神学や哲学の基礎的訓練として位置づけられていたことは
科学的認識と神への信仰が当時において明確に両立可能と見なされていた証左である。

さて、神の意志と人間の理性との調和を、最も整然と論じた人物として
神学者トマス・アクィナスを挙げる必要があるだろう。
彼は自然界の秩序を神の摂理の反映と捉え、さらに存在の根源には
理性によって不可避的に想定されねばならぬ必然的存在があると説いたのである。
(この必然的存在が何であるか、賢明なる読者諸兄は既にご存知のことであろう。)

このように、神学者たちは、被造物の書としての自然界に、神の意志の痕跡を見出していた。
その立場からすれば、自然を探究する営みそのものが、すでに神学的意義を帯びていたとすら言えるのである。



「神は二つの書物を与えた。すなわち、聖書と被造物の書物である。」
    ——アウグスティヌス、『告白録』

「すべてのものはまさしく神の摂理によって何らかの目的に向けて秩序づけられている。」
    ——トマス・アクィナス、『神学大全、第1部第45問第1項』

「存在そのものである本質を持ち、単純な存在である一つの必然的存在が仮定されねばならない。
 この存在によって他のすべての存在が理解されるのである。」
    ——トマス・アクィナス、『神学大全、第1部第2問第3項』

「天において、地において
 海とすべての深淵において
 主は何事をも御旨のままに行われる。」
    ——『聖書』、新共同訳、詩篇135編6節



しかし、この一連のテクストには重大な誤謬がある。
全く大衆に向けては問題が無いのであるが、ひとつ前提が抜けているのである。
この重大な前提をも、読者諸兄は既に知っていることであろう。

ディルムッド・レイン